※塔の高さは確かな資料に基づくものではなく目安です。
その他主要な三重塔 |
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寺院名 |
所在地 |
建立時期 |
高さ(m) |
訪問日 |
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龍源寺 |
大分県臼杵市福良平清水134 |
安政 5年(1858) |
21.8 |
2015.04.25 |
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清水寺 |
福岡県みやま市 |
天保 7年(1836) |
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興隆寺 |
愛媛県西条市 |
天保 3年(1832) |
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興願寺 |
愛媛県四国中央市 |
貞享元年 |
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鶴林寺 |
徳島県勝浦町 |
文政10年(1827) |
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五流尊龍院 |
岡山県倉敷市林952 |
文政 3年(1820) |
21.5 |
2014.10.21 |
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曹源寺 |
岡山県岡山市中区円山1069 |
文政年間 |
20 |
2014.10.21 |
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西大寺 |
岡山県岡山市東区西大寺中3−8 |
延宝 6年(1678) |
22.1 |
2014.10.21 |
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成就寺 |
岡山県岡山市武部町富沢682 |
文化 5年(1808) |
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2021.03.04 |
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金山寺 |
岡山県岡山市北区金山寺481 |
天明 8年(1788) |
26.3 |
2021.03.04 |
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千光寺 |
岡山県赤磐市中島350 |
明和 2年(1765) |
20 |
2021.03.04 |
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餘慶寺 |
岡山県瀬戸内市邑久町北島 |
文化12年(1815) |
20.6 |
2020.01.12 |
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本蓮寺 |
岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓 |
元禄 3年(1690) |
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2020.01.13 |
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清水寺 |
島根県安来市清水町528 |
安政 6年(1859) |
33.3 |
2018.07.24 |
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高源寺 |
兵庫県丹波市 |
江戸時代 |
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相原八幡宮 |
兵庫県丹波市柏原町柏原3625 |
文化12年(1815) |
26.2 |
2018.03.19 |
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鶴林寺 |
兵庫県加古川市加古川町北在家 |
室町時代 |
18 |
2016.03.26 |
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千光寺 |
兵庫県洲本市上内膳2132 |
文化10年(1813) |
26 |
2020.01.16 |
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太山寺 |
兵庫県神戸市 |
貞享 5年(1688) |
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道成寺 |
和歌山県日高郡日高川町鐘巻 |
宝暦12年(1762) |
21.8 |
2016.03.26 |
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水間寺 |
大阪府貝塚市水間638 |
天保 5年(1834) |
20 |
2016.03.25 |
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法輪寺 |
奈良県生駒郡斑鳩町三井1570 |
昭和50年(1975) |
23.8 |
2013.06.27 |
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薬師寺(西塔) |
奈良県奈良市西ノ京町457 |
昭和56年(1981) |
34 |
2018.12.12 |
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三室戸寺 |
京都府宇治市莵道滋賀谷21 |
元禄17年(1704) |
16 |
2016.03.25 |
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真正極楽寺 |
京都府京都市左京区浄土寺真如町 |
文化14年(1817) |
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2013.06.28 |
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徳源院(清龍寺) |
滋賀県米原市清滝288 |
寛文12年(1672) |
15.5 |
2015.07.28 |
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日石寺 |
富山県上市町 |
弘化 2年(1845) |
25.8 |
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五智国分寺 |
新潟県上越市五智3−20−21 |
慶応 元年(1865) |
25.8 |
2011.-6.04 |
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妙光寺 |
新潟県新潟市 |
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光前寺 |
長野県駒ケ根市赤穂29 |
文化 5年(1808) |
17.1 |
2016.09.03 |
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真楽寺 |
長野県北佐久郡御代田町塩野 |
寛延 4年(1751) |
18 |
2012.04.15 |
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貞祥寺 |
長野県佐久市大字前山1380 |
江戸後期1781頃 |
15.9 |
2012.04.15 |
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若一王寺神社 |
長野県大町市字大町2097 |
宝永 8年(1711) |
20.2 |
2016.09.27 |
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高山寺 |
長野県上水内郡小川村稲丘 |
元禄11年(1698) |
17.1 |
2016.09.27 |
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横蔵寺 |
岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原 |
寛文 3年(1663) |
17 |
2016.07.29 |
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飛騨国分寺 |
岐阜県高山市総和町1−83 |
文政 3年(1820) |
22.4 |
2011.08.29 |
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椿山荘 |
東京都文京区 |
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観音教寺(芝山仁王尊) |
千葉県山武郡芝山町芝山298 |
天保 7年(1836) |
25 |
2019.09.03 |
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西福寺 |
埼玉県川口市西立野420 |
元禄 6年(1693) |
23 |
2012.03.14 |
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成就院 |
埼玉県行田市長野7618 |
享保14年(1729) |
11.2 |
2012.03.25 |
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安楽寺(吉見観音) |
埼玉県比企郡吉見町御所374 |
明歴 2年(1656) |
24.3 |
2012.03.25 |
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薬王院 |
茨城県桜川市真壁町椎尾3178 |
宝永 元年(1704) |
25 |
2012.04.02 |
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願成寺(板橋不動) |
茨城県つくばみらい市板橋 |
安永 8年(1779) |
25.1 |
2012.04.02 |
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高勝寺 |
栃木県栃木市岩舟町静3 |
寛延 4年(1751) |
19 |
2015.03.20 |
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高蔵寺 |
福島県いわき市高倉町鶴巻50 |
安永 3年(1774) |
15.7 |
2016.04.06 |
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法用寺 |
福島県大沼郡会津美里町雀林 |
安永 9年(1780) |
20 |
2016.05.25 |
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隠津島神社 |
福島県二本松市木幡字治家49 |
延宝 2年(1674) |
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2016.05.24 |
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安久津八幡神社 |
山形県東置賜郡高畠町安久津 |
寛政 7年(1795) |
20.5 |
2016.05.25 |
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慈恩寺 |
山形県寒河江市大字慈恩寺31 |
文政13年(1830) |
26.7 |
2015.05.25 |
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日吉八幡神社 |
秋田県秋田市八橋本町1−4−1 |
宝永 4年(1707) |
20 |
2016.08.28 |
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普門寺 |
岩手県陸前高田市米崎町字地竹沢 |
文化 6年(1809) |
13 |
2012.07.09 |
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龍源寺三重塔 大分県臼杵市福良平清水134 |
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龍源寺 三重塔
臼杵は弘治2年(1557)に大友宗麟が城を築き、江戸時代は稲葉氏5万石の城下町として栄える。龍源寺は慶長5年(1600)に創建されたが、三重塔は幕末の安政5年(1858)に完成。九州に2塔しかない木造三重塔のうちの一つ。
龍源寺へは臼杵城から城下町の雰囲気が残る通りを歩いて訪れた。ちょうど境内では檀家の法要が行われており、観光目的の訪問者の出入りはちょっと迷惑な雰囲気。遠慮しながらもズカズカと立ち入り三重塔を写真に収める。短時間の滞在だったが城下町に暮らす人の心豊かで落ち着いた生活感が肌に伝わってくる。
後で知ったことだが、この塔の初層の四隅には軒を支えるように邪鬼の彫りものが飾られている。他では見られない仕掛けだ。事前に知っていればもう少し鮮明に写真に残せたのだが、斜め撮りした写真に小さく写っていた。(2015年4月25日撮影) |
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五流尊龍院三重塔 岡山県倉敷市林684(952) |
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五流尊龍院 三重塔
五流尊龍院は修験道の寺。修験道の祖とされる役小角の五人の弟子が天平宝宇5年(761)にこの地に尊龍院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を創建し、現在では尊龍院だけが残った。もともとは熊野本宮大社を祀る神仏習合の寺院であったが、明治政府による神仏分離令により熊野神社と分離、さらに修験道の廃止により天台宗寺門派に一時的に属することになった。現在ある尊龍院の本堂は三重塔からやや離れた場所にあり、もともとは三重塔に隣接して建てられていたものと思われる。三重塔は熊野神社境内近くに建つ。文政3年(1820)の建立とされる江戸後期の重量感ある堂々たる塔。
五流尊龍院へは岡山駅から宇野線を経由して瀬戸大橋線の木見駅で下車。そこから徒歩で25分ほどの場所にある。何時ものことだが、ろくに下調べもせずに五流尊龍院に行けば三重塔が見られるものと出発。しかし五流尊龍院の門内に立ち入るもそこに三重塔はない。一旦門外に出て通りかかった地元の人に三重塔の場所を聞く。尊龍院の裏門から集落の間を抜ける細い道を通り、途中にある真浄院の境内を通り越して熊野神社に行けと教えられる。廻り道をしたがこれも楽しい旅の思い出になった。(2014年10月21日撮影) |
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曹厳寺三重塔 岡山県岡山市中区円山1069 |
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曹厳寺 三重塔
曹厳寺(そうげんじ)は岡山藩池田家二代目藩主綱政が高祖父と父の菩提を弔うために元禄11年(1698)に創建した寺。備中国第一の禅寺とされる。臨済宗妙心寺派に属し山号は護国山。
三重塔は本堂の裏山の中腹にある。曹厳寺に向かう参道から塔の先端部分が僅かに見えていたが、境内からは何の形跡も見えない。案内表示もないので、本堂の裏に回り三重塔への道を探る。少し探して、ハイキングコースと一緒になった三重塔への入り口を見つける。登り口だけは石段、それも10段程度のものであったが、それもすぐに途切れて雑木や雑草を取り払っただけの道となる。結構急こう配の道で、正に修行僧の気分になる。ようやく平らになった場所に着くと三重塔が見えてきたが、ちょっと異様な雰囲気である。塔の周りには何もなく、周囲は金網で囲まれている。山門や仏殿が立派であるだけに、この差が激しい。現在は宗教施設として管理・利用はしていないのだろうか。外見だけ見れば朽ち果てている様子もない。それなりに趣のある塔である。建てられたのは文政年間(1818〜1830)とされる。(2014年10月21日撮影) |
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西大寺三重塔 岡山県岡山市東区西大寺中3−8−8 |
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西大寺 三重塔
西大寺は高野山真言宗の寺で山号は金陵山。寺伝によれば天平勝宝3年(751)の創建とされる。このお寺で最も有名なのは毎年2月に開催される日本三大奇祭の一つとされる会陽(えよう・裸祭り)のようです。本堂の前はその祭りのための広場となり、見物のための恒久的な施設が作られている。とはいえ、本堂は文久3年(1863)、仁王門は元文5年(1740)に建てられたもので寺院としての風格も備わっている。創建時(?)の伽藍は正安元年(1299)に焼失した記録があり、その後も何度か消失しているようです。
現在の三重塔は江戸中期・延宝6年(1675)に建立されたもの。華麗さはないが重厚感ある塔。(2014年10月21日撮影) |
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成就寺 三重塔
成就寺(じょうじゅじ)は山号を藤田山とする日蓮宗のお寺。寺伝によれば奈良時代の天平勝宝年間(729〜749)に創建されたという。当初は天台宗のお寺であったが、南北朝時代の延文3年(1358)にこの地を支配していた金川(かながわ)城(玉松城)の城主松田氏の支援により日蓮宗に改宗。今日に至っている。
明和3年(1766)の火災により寺院の建物は焼失したが、三重塔は文化5年(1808)に再建される。瓦葺。一層と三層の垂木は平行垂木だが二層は扇垂木となっている。
成就寺を訪問するのに岡山駅から津山線の朝一番の電車に乗る。今日は岡山県内にある三カ所の三重塔を訪ねる予定。車を利用すれば短時間で訪問することも可能だが、電車、バス、徒歩で巡る予定なのでまだ暗いうちに宿を出た。
午前七時前に建部駅で下車。北に向かって歩き出す。約3キロほどの道程。1キロほど歩いて西側の丘陵の裾を回り込むように進むと成就寺の三重塔が見えてきた。小振りの塔だが、この集落の風景には相応しい大きさだ。見下すことも威圧することもなく優しく自然の中に溶け込んでいる。(2021年3月4日撮影) |
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金山寺 三重塔
成就寺の三重塔を見てから金山寺へ向かう。津山線で岡山駅方面に戻る。一時間に1本程度の列車の運行なので時間管理に気を遣う。
金山寺へは備前原駅から徒歩で1時間ほど。最初は平坦な道だったが、山陽自動車道の下をくぐったあたりから勾配がきつくなる。
金山寺は「きんざんじ」「かなやまじ」と両方の呼び方があるようだ。因みに所在地の住所「北区金山寺」は「かなやまじ」と読むようだ。
寺伝によれば金山寺は天平勝宝元年(749)の創建という。先に尋ねた成就寺とほぼ同じである。創建当時の寺は裏山山上に建てられていたようだが、延久元年(1069)に焼失、平安時代末期の康治元年(1142)に現在地に移転。戦国時代の文亀元年(1501)には金川城主の松田氏による焼討により寺院建物が焼失。天正3年(1575)松田氏に代わりこの地を支配した宇喜多氏によって本堂、護摩堂が再建される。このとき再建された本堂は国の重要文化財に指定されていたが平成24年(2012)に火災により焼失した。
三重塔は天明3年(1788)の建立。瓦葺、高さ約26m。平成24年の本堂火災による延焼は免れた。和様建築の堂々とした三重塔だが、本堂が存在しない寂しい姿はちょっと残念だ。(2021年3月4日撮影)
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千光寺 三重塔
金山寺から赤磐市の千光寺に向かう。午前中はよく晴れていたが午後になって空模様が怪しくなってきた。金山寺から下山してバスの乗り場である金山口に着いた頃には空全体が雲に覆われていた。
金山口から宇野バスに乗り「日古木・中島口」で降りる。ここから千光寺まではほぼ平坦な道で約20分の歩き。
千光寺(せんこうじ)の創建も先に訪れた成就寺、金山寺と同様の時期、背景があるようだ。いずれも天平勝宝年間(749〜57)に孝謙天皇の勅願により「報恩大師」によって建立された備前四十八か寺の一つ。報恩大師は現在の岡山市芳賀の地に生まれ15歳で出家し芳賀坊と称した伝説の人物。孝徳天皇が病に伏した時、その病気平癒を祈願して功を得、報恩大師の称号と四十八か寺建立の勅願を得たと言われている。
三重塔は明和2年(1765)の建立。瓦葺、高さ20.6m。平成11年(1999)に大修理が行われ、丹塗りが馴染んで落ち着いた色合いを見せている。(2021年3月4日撮影)
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餘慶寺三重塔 岡山県瀬戸内市邑久町北島1187 |
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餘慶寺 三重塔
餘慶寺(よけいじ)は寺伝によれば天平勝宝元年(749)に報恩大師によって開山されたとされる。山号は「上寺山(うえてらさん)」で現在は天台宗の寺院である。永禄13年(1570)に建立された本堂が国の重要文化財に指定されているほか、薬師堂に安置されている薬師如来坐像、聖観世音菩薩立像が国の重要文化財に指定されている。三重塔は文化12年(1815)の建立で、江戸後期の建築様式である。
JR赤穂線・大富駅に着いたのが午後3時少し前。冬の昼間は短い。おまけに曇り空の所為か夕刻のような雰囲気である。ここから目的地の餘慶寺へは徒歩で約20分の行程。ちょっと急ぎ足になって歩き始める。駅前の集落を抜けると丘陵地帯の上り坂。少し登ると風景が一変する。それほど大きな規模ではないが新興住宅街に出る。岡山市の中心地から然程離れていないせいか同市のベッドタウンでもあるようだ。丘陵地を登り切り住宅街を抜けると、また風景が変わる。豊原北島神社、本乗院そして餘慶寺が建ち並ぶ一画が現れる。今日はこの後に岡山市で泊まる予定である。ちょっと寂しい雰囲気ではあるが、時間の許す限りこの場に留まることにする。(2020年1月12日撮影) |
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本蓮寺三重塔 岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓3194 |
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本蓮寺 三重塔
JR赤穂線・邑久(おく)駅から牛窓行のバスに乗る。終点牛窓
の一つ手前、本蓮寺下で下車。約20分のバスの旅。本蓮寺(ほんれんじ)はバス停の直ぐ横の細い路地を山側に向かった先にある。本蓮寺の創建は南北朝時代の正平2年(1374)と伝えられる。本堂は室町時代の明応元年(1492)に再建されたもので国の重要文化財に指定されている。三重塔は元禄3年(1690)に建立された。寺は比高5mほどの高台にあり、南側の50mほど先は瀬戸内海の海岸線である。室町時代、江戸時代から続く木造建築が、適時補修、修理されていたにせよ、吹き付ける潮風、海風に耐えて現在まで残っていることは、それだけで驚嘆する。
古来より牛窓は瀬戸内海を行き来する船便の停泊地として栄えたところ。江戸時代、本蓮寺は江戸へ向かう朝鮮通信使の宿泊所に指定されており、通信使が使用した客殿が残っている。
現在、牛窓は日本のエーゲ海として観光施設を整備しているようだ。訪れた日、快晴ではあったが風が強く吹き付ける。海辺で波の様や瀬戸内海に浮かぶ小島の姿ををのんびり眺めていようと考えていたが諦めた。代わりにオリーブオイルの小瓶を土産に買う。(2020年1月13日撮影) |
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清水寺三重塔 島根県安木市清水町528 |
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清水寺 三重塔
清水寺の創建は用明天皇2年(587)とされる。天台宗の寺院で、厄払いの寺として信仰を集めている。最盛期には48坊を数える大伽藍群を有していたという。しかし室町・戦国時代に尼子、毛利の戦火により多くの伽藍が焼失した。室町時代の明徳4年(1393)に建立された本堂は消失をまぬかれ現存し、国の重要文化財に指定されている。
山陰地方唯一の三重塔は安政6年(1859)に建立されたものが現在に残る。高さ33m余の三重塔で、まじかに見るとその巨大さに圧倒される。(2018年7月24日撮影) |
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柏原八幡宮三重塔 兵庫県丹波市柏原町柏原3625 |
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柏原八幡宮 三重塔
ここでは柏原を「かいばら」と読む。柏原八幡宮は江戸時代の柏原藩城下町に所在するが、織田信長の弟・信包(のぶかね)が慶長3年(1598)に3万6千石で入封して藩が成立する以前に八幡宮はこの地にあった。社殿は柏原藩の陣屋を見下ろす入船山(八幡山)の山上に建っている。
社伝によれば舒明天皇の時代(629〜641) に須佐之男命を奉じて祀ったのが始まりとしているが、歴史的には万寿元年(1024)に京都の石清水八幡宮より分霊を奉じて「柏原別宮」として創建したのが始まりのようだ。
現在に残る社殿は天正13年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉によって再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。三重塔は文化12年(1815)に再建されたものが現在に残る。禅宗様式を取り入れた和様の塔で屋根は桧皮葺。四隅の垂木に竜頭の彫刻と軒を支える力自慢の男の彫刻がある。(2018年3月19日撮影) |
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鶴林寺三重塔 兵庫県加古川市加古川町北在家424 |
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鶴林寺 三重塔
鶴林寺(かくりんじ)の創建は伝承によれば崇峻天皇2年(589)聖徳太子が高麗僧・恵便(えべん)のために建立したとされる。太子建立七大寺の一つで「西の法隆寺」と称されている。室町時代建立の本堂、平安時代建立の太子堂は国宝に指定されている。その他重要文化財に指定された建造物も複数あり、仏像、絵画、工芸品も数多く重要文化財に指定されている。
創建当時は四天王寺聖霊院と呼ばれたが、天永3年(1112)に鳥羽天皇から鶴林寺勅額を受け、以来鶴林寺と寺号を改めた。
三重塔は室町時代の建立とされるが、文政10年(1827)に大改修がされている。また昭和51年(1976)に放火により損傷を受けたが昭和55年(1980)に解体復元修理が行われた。国宝、重要文化財の指定は受けていないが他の重要建築の伽藍と遜色ない堂々とした姿を誇っている。(2016年3月26日撮影) |
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千光寺三重塔 兵庫県洲本市上内膳2132 |
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千光寺 三重塔
千光寺(せんこうじ)は標高448mの先山(せんざん)山頂にある。自力で登ることも考えていたが、洲本に着いて、先山を眺めて、その考えは即座に打ち消した。洲本の淡路交通バスターミナルからタクシーを利用。自身の今の体力を考えればこれ以外の方法が思いつかなかった。
淡路島は「国生み神話」によると日本で最初に生まれた国。その地にある先山は最初の山ということから名付けられているようだ。千光寺の由緒も猪に化身した観音菩薩に導きされた狩人が開基したという伝承がある。よくわからないが、古くから多くの人々の信仰を集めていたようだ。
梵鐘は弘安6年(1283)の銘があり国の重要文化財に指定されている。三重塔は明和6年(1769)淡路島で生まれ、後に廻船問屋として巨万の富を築いた高田屋嘉兵衛が文化年間(1804〜1817)に修築したという記録があるようだ。麓から自力で登れば多少の信仰心も湧いてくるかもしれないが、安直にタクシーを利用して急ぎ足の参拝では「ああ、そうか」程度の思いしか出てこない。三重塔を眺めながら、ちょっと後悔する。(2020年1月16日撮影) |
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道成寺三重塔 和歌山県日高郡日高川町鐘巻1738 |
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道成寺 三重塔
安珍清姫伝説で有名な道成寺(どうじょうじ)を訪ねたのは3月の下旬。和歌山駅を各駅停車の朝一番電車に乗って約1時間、道成寺駅に着いたのは7時ちょっと過ぎ。寒の戻りの冷たい風に吹かれて参道を歩く。
人の気配のない境内だが、やはり和歌山は南国か、五分咲きの桜の花が迎えてくれた。
寺の創建は伝承によれば大宝元年(701)文武天皇の勅願によるとされるが確証はない。しかし発掘調査によれば8世紀の初頭には伽藍が存在したことが証明されており、寺に残る仏像の多くが平安時代の初期から中期のものとされている。三重塔も平安時代には建立されていたと思われているが、寺の衰退とともに消失。現在残る三重塔は宝暦14年(1764)に再建されたもの。奈良時代に建立された三重塔の基壇の上に建てられているという。またこの塔の特徴は、一層、二層は並行垂木で屋根を支えているが、三層は扇垂木となっている。(2016年3月26日撮影) |
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水間寺三重塔 大阪市貝塚市水間638 |
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水間寺 三重塔
水間寺は天正年間(729〜749)に聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝えられる。本尊は聖観音菩薩。古い歴史を持つお寺であるが、現在は厄除け観音として評判の寺。また、この寺の伝承で最も有名なのは井原西鶴が元禄元年(1688)に出版した日本永代蔵の巻之一に記載された水間寺の三重塔にまつわる話。”江戸にかくれなき俄分限、泉州水間寺利生の銭”のサブタイトルがある話で、江戸の時代に水間寺では二月の初午の日に参拝して銭を借り、それを来年に倍返しする習慣があった。ある年に江戸の船問屋の商人が一貫文の銭を借りて13年後に八千貫にして返した。寺はその金で三重塔を建立したという話。西鶴は”貴賤男女もうでける、皆信心にあらず、欲の道ずれ”とちょっと皮肉を込めて書いている。私が水間寺を訪れたのは旧暦の2月。初午の日ではないが仏の「利生」にすがってみた。もっとも、ご利益は私自身の精進に掛かっているということのようだ。
水間寺の三重塔は寛文元年(1661)に建立されたものが天明4年(1784)に焼失。現在に残る塔は天保5年(1834)に再建されたもの。第一層の軒下には十二支の彫刻がある。(2016年3月25日撮影) |
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法輪寺三重塔 奈良県生駒郡斑鳩町三井1570 |
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法輪寺 三重塔
法隆寺を出て民家と田園が混在する道をのんびりと歩き法輪寺を訪ねた。古代から途切れることなく続く悠久の歴史を感じさせる風景のなかに法輪寺と三重塔があった。
法輪寺は三井寺とも呼ばれているが、これは寺のある地名”三井”に由来し、三井は聖徳太子ゆかりの三つの井戸がこの地にあったことによる。寺の創建は推古天皇30年(622)あるいは天智天皇9年(670)とする説があるが、確たる資料はない。発掘調査によって飛鳥時代末期、七世紀中頃には存在していたと推定されている。
法輪寺の三重塔は法隆寺、法起寺の塔と共に斑鳩三塔と呼ばれていたが、昭和19年(1944)に落雷のため焼失。昭和50年(1975)に再建された。焼失する以前の三重塔は当時の現存する三重塔の最古の塔として国宝に指定されていた。再建された塔は旧三重塔の心楚をそのまま使用し、創建当時の飛鳥時代の様式を写している。初層と2層は3間、3層は2間で法起寺と同じ様式。趣のある塔であり、昭和に再建された塔と聞かされなければ古代より連綿と歴史を刻んだ三重塔だと信じてしまいそうである。(2013年6月27日撮影) |
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薬師寺三重塔(西塔) 奈良県奈良市西ノ京町457 |
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薬師寺 三重塔(西塔)
薬師寺から唐招提寺への散策路は何度か通った道である。とはいえ、前回訪れたのは私がまだ50歳代の初めの頃であるから20年ほど前のことになってしまった。そのときは国宝に指定さている東塔が古式華麗な姿を見せて西塔と対峙していた。今その東塔は改修のため工事用の覆いが被されている。東塔が再び姿を現すのはまだ2年先の事のようだ。
薬師寺は天武天皇9年(680)に飛鳥藤原京に造営が開始され、持統天皇2年(688)頃に完成。その後平城京への遷都があり、それにともない養老2年(718)頃に現在地に移転する。伽藍配置は薬師寺式と称されるもので、中門、金堂、講堂を直列に配置し、金堂の手前東西に三重塔が建てられた。この時建立された伽藍のうち残ったのは東塔だけで他は江戸時代後期の仮建築であったが、昭和51年(1976)に金堂が再建され、西塔は昭和56年(1981)に再建される。金堂は内部がコンクリートで補強されているが三重塔は金属による補強を極力避けて、古来の木造建築として建立された。
再建された三重塔(西塔)は東塔と同様に各層に裳階(もこし)が付けられ一見すれば6層にも見える。塔の高さは東寺、興福寺、醍醐寺の五重塔に次いで高いという。2年後、修復を終えた東塔と対の姿が眺められる日が待ち遠しい。(2018年12月12日撮影) |
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三室戸寺三重塔 京都市宇治市菟道滋賀谷21 |
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三室戸寺 三重塔
三室戸寺は西国三十三か所の第10番札所。もう50年近く前になるが札所廻りの両親に付き合って訪れたことがある。今回はそれ以来の訪問である。50年も前のことは全く記憶にない。ここに三重塔があったことも記憶に残っていない。
寺の創建は宝亀元年(770)光仁天皇の勅願により南都の僧「行表」によるとされる。本尊は創建時より伝わる千手観音菩薩だが秘仏として開帳されることは稀。三重塔は江戸時代後期に再建された本堂の東に置かれているが、この塔はもともと兵庫県佐用町の高蔵寺という寺にあったもので、元禄17年(1704)に播磨三日月藩初代藩主により建立されたもの。これを明治43年(1910)に移築した。和様形式の高さ16mの小ぶりの塔だが、広大な敷地の境内に存在感を持って鎮座している。
訪れたのは桜の花が咲くにはまだ少し早い三月の下旬。聞けばこの寺は紅葉の名所という。その時期に訪れれば三重塔も今回とは違った趣で迎えてくれるかもしれない。(2016年3月25日撮影) |
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真正極楽寺三重塔 京都府京都市左京区浄土寺真如町82 |
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真正極楽寺 三重塔
真如堂の通称で呼ばれる真正極楽寺は永寛2年(984)比叡山の僧・戒算が比叡山常行堂の阿弥陀如来を東三条院詮子(一条院天皇生母)の離宮に安置したのが始まりとされる。不断念仏の道場として多くの信者を得たが、度重なる火災で各地を転々とする。元禄6年(1693)に現在の場所に再建され、以後今日まで続く。
三重塔は文化14年(1817)の建立。和様形式の堂々たる構えの塔である。(2013年6月28日撮影) |
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徳源院(清瀧寺)三重塔 滋賀県米原市清滝288 |
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徳源院(清瀧寺)三重塔
大垣から乗車してJR東海道線の柏原駅で下車。駅前の集落を抜けると田園地帯が広がる。鮮やかな緑色の広がる田圃の中を15分ほど歩くと日本の原風景を思わせる集落が現れる。側溝を清流が流れる一本道のなだらかな斜面を登りつめると城郭を思わせる石垣が見える。ここが目指す徳源院である。徳源院はは創建当初は清瀧寺と呼ばれた。鎌倉時代に近江守に任ぜらえた京極氏が弘安9年(12866)に創建したのが始まりという。
その後、寛文12年(1672)讃岐丸亀藩の藩主であった京極高豊が散在していた先祖の墓碑を清瀧寺の一か所に集めて寺を復興。この時に三重塔を寄進した。また院号を高豊の父、京極高和の法名から徳源院とした。現在も京極氏の菩提寺として歴代の墓碑が祀られている。
三重塔は寺門を潜るとすぐの左手に建っている。豪壮ではないが近江源氏の流れを受け継ぎ、鎌倉時代の守護職から連綿とつ続いた京極家の歴史を感じさせる静かな佇まいである。寺の脇には清流も流れている。寺を訪れた季節は盛夏であるが、蒸し暑さは感じない。昼下がりのひと時、浮世の諸事を忘れさせてくれる。(2015年7月28日撮影) |
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