※塔の高さは確かな資料に基づくものではなく目安です。
国宝・重要文化財の三重塔 |
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寺院名 |
所在地 |
建立時期 |
高さ(m) |
訪問日 |
重文 |
石手寺 |
愛媛県松山市2−9−21 |
文保 2年(1318) |
24.1 |
2013.06.23 |
国宝 |
向上寺 |
広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田57 |
永享 4年(1432) |
19.5 |
2017.03.27 |
重文 |
天寧寺 |
広島県尾道市東土堂町17−29 |
嘉慶 2年(1388) |
25 |
2017.03.27 |
重文 |
西国寺 |
広島県尾道市西久保町29−27 |
永享 元年(1429) |
22.3 |
2017.03.27 |
重文 |
宝福寺 |
岡山県総社市井尻野1968 |
永和 2年(1376) |
18.5 |
2014.10.21 |
重文 |
遍照院 |
岡山県倉敷市西阿知野464 |
応永23年(1416) |
21 |
2014.10.20 |
重文 |
福生寺 |
岡山県備前市大内999 |
嘉吉 元年(1441) |
19.7 |
2020.01.12 |
重文 |
真光寺 |
岡山県備前市西片上1513 |
室町時代中期 |
18.2 |
2014.10.22 |
重文 |
本山寺 |
岡山県久米郡美咲町定宗403 |
承応 元年(1652) |
26 |
2021.03.06 |
重文 |
長福寺 |
岡山県美作市真神414 |
弘安 8年(1285) |
22 |
2021.03.05 |
国宝 |
一乗寺 |
兵庫県加西市坂本町821−17 |
大永 7年(1527) |
21.8 |
2021.03.07 |
重文 |
名草神社 |
兵庫県養父市 |
永禄 8年(1565) |
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重文 |
斑鳩寺 |
兵庫県揖保郡太子町鵤709 |
永禄 8年(1565) |
24.8 |
2017.03.28 |
重文 |
石峯寺 |
兵庫県神戸市北区淡河町神影 |
室町中期 |
24.4 |
2018.03.20 |
重文 |
六条八幡宮 |
兵庫県神戸市北区山田町 |
文正 元年(1466) |
19.1 |
2018.03.20 |
重文 |
如意寺 |
兵庫県神戸市西区櫨谷町谷口 |
至徳 2年(1385) |
21.3 |
2018.07.26 |
重文 |
南法華寺(壷阪寺) |
奈良県高市郡高取町壺阪3 |
明応 6年(1497) |
23.6 |
2017.02.19 |
国宝 |
當麻寺(東塔) |
奈良県葛城市當麻1263 |
奈良時代後期 |
22.2 |
2013.06.27 |
国宝 |
當麻寺(西塔) |
奈良県葛城市當麻1263 |
平安時代前期 |
25.2 |
2013.06.27 |
重文 |
百済寺 |
奈良県葛城郡広陵町百済1168 |
鎌倉時代中期 |
23 |
2013.06.27 |
国宝 |
法起寺 |
奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873 |
慶運 3年( 706) |
23.9 |
2013.06.27 |
重文 |
霊山寺 |
奈良県奈良市中町3879 |
文和 5年(1356) |
17 |
2017.02.19 |
国宝 |
薬師寺(東塔) |
奈良県奈良市 |
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国宝 |
興福寺 |
奈良県奈良市登大路町48 |
鎌倉時代初期 |
19.1 |
2013.06.27 |
国宝 |
浄瑠璃寺 |
京都府木津川市加茂町西小札場 |
治承 2年(1178) |
16 |
2017.02.20 |
重文 |
岩船寺 |
京都府木津川市加茂町岩船 |
嘉吉 2年(1442) |
20.5 |
2017.02.20 |
重文 |
宝積寺 |
京都府乙訓郡大山崎町銭原1 |
慶長 9年(1604) |
19.5 |
2016.03.25 |
重文 |
清水寺 |
京都府京都市東山区清水1 |
寛永 9年(1632) |
15 |
2013.06.28 |
重文 |
清水寺(子安塔) |
京都府京都市東山区清水1 |
寛永期 |
22 |
2013.06.28 |
重文 |
金戒光明寺(文殊塔) |
京都府京都市左京区黒谷町121 |
寛永11年(1634) |
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2013.06.28 |
重文 |
金剛院 |
京都府舞鶴市 |
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重文 |
園城寺(三井寺) |
滋賀県大津市園城寺町 |
鎌倉時代後期 |
24.7 |
2014.04.05 |
重文 |
長命寺 |
滋賀県近江八幡市長命寺町157 |
慶長 2年(1597) |
24.4 |
2014.04.05 |
重文 |
総見寺 |
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 |
享徳 3年(1454) |
20 |
2014.04.05 |
国宝 |
常楽寺 |
滋賀県湖西市 |
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重文 |
金剛輪寺 |
滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺873 |
寛元 4年(1246) |
22 |
2014.04.06 |
国宝 |
西明寺 |
滋賀県犬上郡甲良町池寺26 |
鎌倉時代後期 |
23.7 |
2014.04.06 |
国宝 |
明通寺 |
福井県小浜市門前5−22 |
文永 7年(1270) |
22.1 |
2015.07.29 |
重文 |
那谷寺 |
石川県小松市 |
寛永19年(1642) |
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重文 |
乙宝寺 |
新潟県胎内市乙1112 |
元和 5年(1619) |
24.2 |
2015.05.24 |
重文 |
新海三社神社 |
長野県佐久市田口2394 |
永正12年(1515) |
20 |
2012.04.15 |
国宝 |
安楽寺 |
長野県上田市別所温泉2361 |
正応4年(1290)頃 |
18.7 |
2012.04.16 |
重文 |
前山寺 |
長野県上田市前山300 |
室町時代初期 |
19.5 |
2012.04.16 |
重文 |
信濃国分寺 |
長野県上田市大字国分1049 |
室町時代中期 |
19.7 |
2012.04.15 |
国宝 |
大法寺 |
長野県小県郡青木村 |
正慶 2年(1333) |
18.6 |
2012.04.16 |
重文 |
真禅院 |
岐阜県不破郡垂井町宮代朝倉 |
寛永20年(1643) |
25.4 |
2015.07.28 |
重文 |
日吉神社 |
岐阜県安八郡神戸町神戸1 |
天正13年(1585) |
24.7 |
2016.07.29 |
重文 |
新長谷寺 |
岐阜県関市長谷寺1 |
寛正 4年(1463) |
20.1 |
2016.07.29 |
重文 |
甚目寺 |
愛知県あま市甚目寺東門前4 |
寛永 4年(1627) |
25 |
2012.08.28 |
重文 |
三明寺 |
愛知県豊川市豊川町波通37 |
享禄 4年(1531) |
14.5 |
2011.12.17 |
重文 |
油山寺 |
静岡県袋井市村松1 |
慶長16年(1611) |
23 |
2011.12.18 |
重文 |
三渓園 |
神奈川県横浜市中区本牧三之谷 |
康正 3年(1457) |
23.9 |
2006.02.19 |
重文 |
成田山新勝寺 |
千葉県成田市成田1 |
正徳 2年(1712) |
25 |
2011.05.27 |
重文 |
小山寺 |
茨城県桜川市冨谷2190 |
寛正 6年(1465) |
21.4 |
2012.04.02 |
重文 |
西明寺 |
栃木県芳賀郡益子町益子4469 |
天文 6年(1537) |
18.2 |
2012.04.02 |
重文 |
四本龍寺(輪王寺) |
栃木県日光市山内 |
元禄 3年(1690) |
18 |
2016.05.26 |
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重文 石手寺三重塔 愛媛県松山市石手2−9−21 |
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石手寺 三重塔
石手寺は真言宗豊山派の寺院で、号は熊野山虚空蔵院。四国88カ所霊場の51番札所。寺伝によれば神亀5年(728)に伊予国大守・越智玉純が熊野権現を祭ったことに始まり、天平元年(729)行基が薬師如来を安置して開基したとしている。創建当時は法相宗であったが、弘仁4年(813)に空海が訪れ、真言宗に改めた。創建時の寺名は安養寺であったが、寛平4年(892)に越智氏の系統で地元の豪族河野氏によって石手寺と改められ、以後越智氏の庇護を受けて室町時代に至るまで繁栄した。最盛期には7堂伽藍、66坊を数える大寺院であった。
三重塔は鎌倉時代後期文保2年(1318)頃の建築とされる。心柱は初層の四天柱の頂部に架けられた梁で受け止め、心柱が礎石に接していない構造。この構造は平安後期から鎌倉時代にかけて多く用いられた工法という。全体に和様の構造で、均整が取れた鎌倉時代の特色を伝える三重塔である。
石手寺は道後温泉に向かう途中で寄る。夕暮れに近い時間であったので少々急ぎ足の見学となった。この後、河野一族が拠点とした湯築城を訪れる予定だったが生憎雨が降り出した。城跡見物はあきらめ、道後の湯に浸かって旅の疲れを癒すことにする。(2013年6月23日撮影) |
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国宝 向上寺三重塔 広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田57 |
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向上寺 三重塔
JR山陽本線の三原駅で下車し、徒歩で三原港へ向かう。ここから高速船(?連絡船)に乗り生口島(いくちじま)瀬戸田町へ渡る。約25分の船旅。瀬戸田は平成18年(2006)に尾道市と合併したが、それまでは豊田郡瀬戸田町。旧石器時代このあたり一帯は一団の平地で、縄文時代の遺跡や古墳時代の墓も点在しているという。
目指す向上寺は瀬戸田港から徒歩で15分ほどの丘の上にある。海岸沿いには2車線の舗装道路があるが、一歩住宅地に入ると港町特有の迷路のような細い路地に入り込む。”旅をしている”と実感する光景だ。
向上寺は応永10年(1403)に現在の三原市に拠点を置く小早川氏の一族生口氏が寄進したものという。三重塔は永享4年(1432)に同じく生口氏によって創建される。方3間。和様を基調とするが花頭窓(かとうまど)を設けるなどの細部には唐様の手法が用いられている。向上寺の裏手にある丘の頂上部まで散策路が設けられており、ここからの眺めは絶品である。三原に帰る次の船便が来るまで瀬戸内の風景を堪能した。(2017年3月27日撮影) |
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重文 天寧寺三重塔 広島県尾道市東土堂町17−29 |
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天寧寺 三重塔
尾道を紹介するパンフレットに必ずと言っていいほど掲載されているのが天寧寺(てんねいじ)の三重塔。尾道駅から千光寺公園に登るロープウェーの麓駅まで歩き、千光寺公園に行く。そこから千光寺を経由して天寧寺の三重塔まで散策路を下る。
天寧寺は貞治6年(1367)足利尊氏の嫡男で室町幕府2代将軍の足利義詮が建立。三重塔は嘉慶2年(1388)に五重塔として建立されたが、江戸時代の元禄5年(1692)に老朽化した4層5層を取り払い三重塔に修復したという。その所為かちょっと寸胴に見え、上に2層を追加しても不自然には見えない外観となっている。(2017年2月27日撮影) |
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重文 西国寺三重塔 広島県尾道市西久保町29−27 |
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西国寺 三重塔
西国寺は寺伝によれば奈良時代の天平年間(729〜749)に行基によって開山されたという。この時の伽藍は平安時代の治暦2年(1066)の火災で焼失したが、永保元年(1081)に白河天皇の勅命により復興。南北朝時代の永和年間(1375〜1378)に再び火災により伽藍が焼失するが至徳年間(1384〜1386)に備後国の守護大名、山名氏によって伽藍は整備され、現在の金堂はその時代のものが残る。
三重塔は永享元年(1429)室町幕府6代将軍足利義教の寄進によって建立されたものが現在に残る。瓦葺、純和様形式の建築。高台にあるため参道からもその姿を見ることができる。しかし残念ながら境内の何か所かの階段を登りつめて、三重塔が建つ場所までの最後の階段と思しき場所まで来て愕然とする。なんと崖崩れで危険のため立ち入り禁止とある。階段はやや急な勾配であるがしっかりとした石造りで崩れた様子などない。周りを見渡してもそんな様子は感じられない。太い竹の棒で登り口はブロックされているので、それをまたいで侵入するのはさすがに気が引ける。残念ながら引き返すしかない。信心のない物見遊山の観光客を追い払うためのお寺の意思を感じつつ下山する。(2017年3月27日撮影) |
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重文 宝福寺三重塔 岡山県総社市井尻野1968 |
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宝福寺 三重塔
宝福寺(ほうふくじ)は臨済宗東福寺派の寺院で正式には井山宝福禅寺と号する。元々は天台宗の寺院であったが、鎌倉時代・貞永元年(1232)に臨済宗に改められたという。室町時代にこの地に生まれた雪舟が少年時代に修行をしたことでも有名で、門前には少年時代の雪舟の像も立っている。
三重塔は南北朝時代・永和2年(1376)に建立されたとされる。寺の奥の一段高い所に、寺院全体を見守るように建っている。
宝福寺を訪れた日は午後から雨の天気予報だった。この日は都合6か所の名跡を訪ねる予定であり、雨の降り出さないうちに少しでも見ておこうと倉敷から一番電車に乗って出掛けた。まだ薄暗い総社の駅に着いてタクシーを探したが、タクシーばかりか人っ子一人いない。電話で呼び出すのも大袈裟と思い、約30分の道のりを歩くことにした。平坦な道であり、後期高齢者には少し間がある我身には何の苦労もなかった。むしろ秋の気配を感じて田園地帯を歩くことで清々しい気分になる。旅をしているという実感に浸ることもできた。(2014年10月21日撮影) |
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重文 遍照院三重塔 岡山県倉敷市西阿知464 |
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遍照院 三重塔
遍照院(へんじょういん)は真言宗御室派の寺。神遊山神宮寺遍照院と号する。寺伝によれば花山天皇の勅願を受けた智空上人が平安時代・寛和元年(985)に開山し、寺号からも当初は神仏習合の形態であったことが窺われる。現在も寺院の隣に熊野神社がある。天正年間には毛利家の、江戸時代は岡山藩池田家の祈願所として寺領も与えられていたようだ。
三重塔は開山時期の寛和元年に建てられたとされるが、消失し、現在の塔は二代目で応永23年(1416)に建てられたもの。室町時代の特徴をもった塔である。
寺の歴史を物語るのか、現在の三重塔は寺院の塀の外に鎮座する。門外の駐車場の隅に建っている。堂々とした塔であるから何処に建っていようが充分に存在感はあるのだが、少し寂しげにも見える。尤もこの方が誰でも何時でも塔を自由に拝観できるという利点はある。(2014年10月20日撮影) |
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重文 福生寺三重塔 岡山県備前市大内999 |
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福生寺 三重塔
午前11時少し過ぎ、JR赤穂線・香登(かがと)駅から歩き出す。約50分の道程。最初は平坦な道だったが福生寺が近づくにつれて勾配がきつくなる。寒さ対策のため着込んだセーターを一枚脱ぐことに。歳を取って、暑さにも寒さにも弱くなった。
福生寺(ふくせいじ)は山号を「大滝山」とする高野山真言宗の寺院。寺伝によれば創建は天平勝宝6年(754)。戦国時代、赤松氏と山名氏の争いで山門と三重塔以外は消失。その三重塔は寺伝によれば室町幕府6代将軍足利義教によって嘉吉元年(1441)に建立されたものという。国の重要文化財に指定されている。塔の内部には大日如来像が安置されている。
福生寺を訪れたのは1月中旬、成人の日の前日の日曜日。参拝者は私以外に誰もいない(信仰心のない私は参拝者ではないかも)。ちょうど昼時、弁当の用意はないが、三重塔を眺めながら非常時用にバックに入れておいたビスケットを頬張る。(2020年1月12日撮影) |
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重文 真光寺三重塔 岡山県備前市西片上1513 |
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真光寺 三重塔
朝から生憎の雨である。しかもかなり激しく降っている。それでも真光寺に着いた時は少し小降りになった。
真光寺は岡山駅から赤穂線の各駅停車で約45分、西片上駅から歩いて約5分の場所にある。伝承では行基により奈良時代・天平11年(739)に創建された寺。南北朝時代に戦火で焼かれ、室町時代に復興したが戦国時代に再び荒廃。江戸時代になって岡山藩の保護で再興された。高野山真言宗の寺で山号は御滝山。本堂は応永年間(1394〜1428)に建てられ永正13年(1516)に修理増築されたもので国の重要文化財に指定されている。
三重塔は室町時代中期の建造とされる。もともとは牛窓の蓮華頂寺にあったものを慶長6年(1601)に移築したという。室町時代の特徴を持った塔で、総社市の宝福寺、倉敷市の遍照院の三重塔と姿、形が似ている。何れもこの地の宮大工により受け継がれた建造技法が使われているのかもしれない。(2014年10月22日撮影) |
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本山寺 三重塔
岡山駅からJR津山線の快速電車に乗って弓削駅に着いたのは朝の7時半。ここから本山寺まではおおよそ7キロほどの距離。曇り空ではあるが雨は降らないとの天気予報を信じて歩き出す。予定では約1時間半程の行程である。来年は後期高齢者の仲間入りをする年代になったが、歩く機会は若い時よりも今の方が多くなった。平坦な道であれば1,2時間程度なら休まずに歩き通すことは苦痛ではない。田園風景を眺めながらひたすら歩くのも気分転換になっていいものだ。もっとも県道から分かれて勾配のきつい山道を歩く最後の2キロほどはさすがに汗をかいた。それでも予定通り本山寺には9時少し過ぎに着くことができた。
山門をくぐって石段を登ると、お寺らしからぬ門構えが目に入る。石垣を築き、その上には大名屋敷の長屋門か、ちょっとした城郭の門を彷彿させる建物が築かれている。
本山寺は白鳳時代の大宝元年(701)の創建とされる。当初は現在地より南方の山頂に築かれていたが、平安時代の末期、天永元年(1110)に現在の地に移転。天台密教の山岳道場として僧坊120カ所を数えるほど栄えていたという。江戸時代初期には津山藩の藩主となった森氏の祈願所となり、森氏の改易後に藩主となる松平氏(徳川家康の二男結城秀康の系統)からも引き続き庇護を受ける。寺の門構えが武家風に感じられるのは津山藩の庇護を受けていたことも理由かもしれない。
三重塔は承応元年(1652)に森氏の時代の津山藩によって創建される。桧皮葺。高さ26m。高さは岡山県内最大のもの。塔内には五智如来が安置されている。(2021年3月6日撮影) |
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長福寺 三重塔
昨日の夜に降り出した雨は朝になって止んだが、雲は空全体を覆ったままだ。また何時降りだすのかと心配しながら朝早く岡山駅前からバスに乗る。今日は約1時間半バスを乗り継いで美作市福本まで行き、そこから約40分歩いて長福寺を訪問する。岡山駅からは民営バスに乗り、途中で赤磐市が運行するバスに乗り換える。
美作市は平成17年(2005)に勝田町、美作町、大原町、作東町、英田(あいだ)町、東粟倉村の5町1村が合併して成立した市。バスの降車地福本は旧英田町の中心地。美作市の立派な支所もある。バス停から長福寺までは約4キロ弱の道程。ほぼ平坦な道なので雨に降られさえしなければ何の問題もない。幸いに長福寺に到着するまでは雨が降ることはなかった。
長福寺は奈良時代の天平宝字元年(757)孝謙天皇の勅願により鑑真和上によって開基されたと伝えられているが史実かどうか確証はないようだ。創建時の寺は現在の山麓ではなく後背地の真木山の山上にあった。その後に寺は荒廃するが、鎌倉時代の弘安8年(1285)に天台宗の円源上人によって再興される。最盛期には60を超える寺坊があり、また天台宗と真言宗と宗派が頻繁に入れ替わったが、南北朝時代の明徳年間(1390〜1393)に完全に真言宗の寺院となり現在まで続いている。
江戸時代初期には40の寺坊、中期には25の寺坊、明治維新時には4ヵ所の寺坊まで衰退し、さらに明治9年の火災により1か所(奥の院)を除いて消失する。この残った寺院が現在の長福寺。寺院は昭和初期に山上から現在地に移転し、残っていた三重塔も昭和26年に現在地に解体修理・移転された。
三重塔は棟札によって弘安8年(1285)に建立されたものと確認されている。岡山県内では最も古い木造建築物である。高さ約22m。屋根の勾配が緩く軒先が深く、えりが軽快で鎌倉時代の典型的な建築様式。直近の修理は平成27年(2015)におこなわれ美しい丹塗りの姿に甦っている。(2021年3月5日撮影) |
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一乗寺 三重塔
法華山一乗寺の開山は天竺(インド)から紫雲に乗って飛来した「法道仙人」によるとする伝説がある。法道は神通力を駆使して米などの供物を得ていたとされ、こうした噂を聞いた孝謙天皇が白雉元年(650)に勅命で金堂を建立したのが一乗寺の始まりという。現在に残る国の重要文化財に指定されている金堂(大悲閣)は寛永5年(1628)姫路藩主本多忠政が再建したもの。その他に国の重要文化財に指定されている護法堂、妙見堂、弁天堂などは鎌倉時代、室町時代に建立されたものが現在に残っている。
国宝に指定されている三重塔は平安時代末期の承安元年(1171)に建立された。兵庫県内では最古の三重塔。建立当時の技法に加え、心柱が初重の天井裏から建てられているなど中世技法の先駆けとなる技法も用いられているという。外観は平安様式の安定感のある優美な姿を見せている。
一乗寺は西国33カ所札所の第26番札所になっている。50年近く前のこと、私がまだ独身で両親が健在であった頃、札所巡をしていた両親の運転手役でこの寺を訪れたことが懐かしい。(2021年3月7日撮影) |
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重文 斑鳩寺三重塔 兵庫県揖保郡太子町鵤709 |
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斑鳩寺 三重塔
伝承によれば推古天皇14年(606)に聖徳太子は推古天皇から播磨国揖保に水田百町を賜り、この地を斑鳩荘(鵤荘)と名付け、伽藍を建立したのが斑鳩寺の始まりという。大伽藍を擁して?栄していたが室町時代後期の天文10年(1541)に出雲の尼子氏の播磨侵攻による戦乱で寺は焼失する。その後龍野城主であった赤松政秀の支援を受けた篠山円勝寺の僧により天台宗の寺院として再建される。
三重塔は永禄8年(1565)に再建されたものが現在に残る。相輪の輪柱には聖徳太子ゆかりの仏舎利が納められているという。また各所にユニークな彫り物が見られる。(2017年3月28日撮影) |
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重文 石峯寺三重塔 兵庫県神戸市北区淡河町神影110−1 |
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石峯寺 三重塔
石峯寺(しゃくぶじ)は伝承によれば白雉2年(651)孝徳天皇の勅願によりインドから渡来した「法道仙人」によって開山されたとされる。延命地蔵菩薩を本尊として、現在は真言宗の寺院で山号は岩嶺山(がれいさん)。天平19年(747)に行基が薬師堂を建立したと伝えられ、弘仁14年(823)に嵯峨天皇の勅願により三重塔が建立されたとされる。薬師堂、三重塔はいずれも最初に建立されたものは室町時代の嘉吉の乱(1441)による兵火により焼失し、その後、室町時代後期に再建されたものが現在に残る。いずれも国の重要文化財の指定を受けている。
三重塔は第一層の高さに比べて二層、三層の高さが他の三重塔と比べても著しく低いのが特徴とされる。もともとはこけら葺、あるいは桧皮葺であったが現在は銅板葺に葺き直されているとのこと。
石峯寺を訪れたのは三月の中旬。少し前は4月初旬の温かさで桜の開花の知らせが各地からあったが、この日は最高気温が10度にとどかず真冬並みの寒さ。三重塔は歴史の積み重ねを連想させる落ち葉の中で静かに佇んでいた。(2018年3月20日撮影) |
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重文 六条八幡宮三重塔 兵庫県神戸市北区山田町中字宮ノ片57 |
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六条八幡宮 三重塔
六条八幡宮が所在する山田の地は神功皇后の行宮があった霊地とされ、平安時代の長徳元年(995)に周防の国の僧”基燈”(弘法大師の弟子とされるが伝説上の人物)が八幡三神(応神天皇、比売神、神功皇后)を祀る宝殿を建立したのが六条八幡宮の起源とされる。
その後、保安4年(1123)に山田庄の領主であった源為義(源頼朝の祖父で河内源氏の棟梁)が京都六条西洞院の自邸に祀られていた岩清水八幡宮の分霊「左女牛(さめがい)八幡宮」を合祀する。このことによち六条八幡宮と呼称されるようになる。
三重塔は文正元年(1466)に建立されたものが現在に残る。和様の重厚な趣の塔で、屋根は桧皮葺。国の重要文化財の指定を受けている。(2018年3月20日撮影) |
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重文 如意寺三重塔 神戸市西区櫨谷町谷口259 |
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如意寺 三重塔
如意寺は山号を比金山とする天台宗の寺。寺伝によれば大化元年(645)に天竺から飛来したという伝説的な仙人”法道仙人”がハゼノキに刻んだ地蔵菩薩と毘沙門天を祀ったのが如意寺の起源とされるが、確証はなく伝説の域を出ないようだ。如意寺に関わるもっとも古い文書は仁平2年(1152)で発掘調査の結果もこの時代のものであったことから、寺の創建は12世紀中頃と推定されている。
江戸時代、寛文7年に東叡山寛永寺の末寺となり、東西16町、南北12町の山林を有し、12坊院が建てられていたという。
境内には室町時代後期の享徳2年(1453)の建立とされる文殊堂。鎌倉時代初期の建立とされる阿弥陀堂。南北朝時代の至徳2年(1385)に建立された三重塔が現在に残り、いずれも国の重要文化財に指定されている。(2018年7月36日撮影) |
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重文 南法華寺(壷阪寺)三重塔 奈良県高市郡高取町壺阪3 |
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南法華寺(壷阪寺)三重塔
壷阪寺は西国三十三か所の第六番札所。訪れるのは今回で3度目だと思う。ただし今回訪れたのは札所巡りが目的ではなく、三重塔を写真に収めるため。ここから徒歩で約一時間山道を登った高取城跡を訪ねた帰り道に立ち寄る。寺の正式名称は壺阪山南法華寺と言うそうだが壷阪寺と言ったほうが一般的。お寺のホームページにも南法華寺とはどこにも表記していない。
寺の創建は大宝3年(703)、南都七大寺の一つ元興寺の弁基上人によるとされる。京都清水寺の北法華寺に対して南法華寺と称され、古くから観音霊場として知られる。本尊は室町時代に制作された十一面千手観音菩薩。
伽藍は何度となく火災により焼失し、三重塔は室町時代、明応6年(1497)に再建されたもの。瓦葺で高さ約23mの堂々とした姿。室町時代前期に建立された「礼堂」とともに国の重要文化財に指定されている。(2017年2月19日撮影) |
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国宝 當麻寺三重塔(東塔) 奈良県葛城市大麻263 |
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當麻寺 三重塔(東塔)
寺伝によれば當麻寺は推古天皇20年(612)に用明天皇の第3皇子・麻呂子親王(聖徳太子の異母弟)により創建されたとされる。最初は萬法蔵院禅林寺と号したが、麻呂子親王の孫の代になり當麻氏を名乗ったことから當麻寺に改名した。資料的には七世紀末に壬申の乱で功績のあった當麻国見が建立した氏寺とみられている。
當麻寺には中将姫伝説の当麻曼荼羅でよく知られている。中将姫の伝承は中世から近世にかけて能、浄瑠璃、歌舞伎などで演じられるようになる。當麻寺の伽藍は治承4年(1180)の平重衡の南都焼き打ちに遭い、金堂、講堂等は鎌倉時代に再建されたものが今に残る。
三重塔は東西に2基あり、南都焼き打ちの際も焼失を免れて東塔は奈良時代後期、西塔は平安時代前期に建立されたと推定されるものが今に残る。東西2基の塔が創建当時から現存しているのは當麻寺だけ。
相輪は一般には9輪であるが當麻寺の三重塔は東西ともに8輪。東塔は22.2m。水煙が魚骨状の特異なデザイン。初層3間、2,3層は2間の構造で檜造り。西塔は25.2m。水煙は未敷蓮華のデザイン。初層から3層まで3間の構造で、ケヤキ造りとなっている。平安時代の塔の建築に広葉樹が使われているのは異例という。(2013年6月27日撮影) |
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国宝 當麻寺三重塔(西塔) 奈良県葛城市大麻263 |
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當麻寺 三重塔(西塔)
寺伝によれば當麻寺は推古天皇20年(612)に用明天皇の第3皇子・麻呂子親王(聖徳太子の異母弟)により創建されたとされる。最初は萬法蔵院禅林寺と号したが、麻呂子親王の孫の代になり當麻氏を名乗ったことから當麻寺に改名した。資料的には七世紀末に壬申の乱で功績のあった當麻国見が建立した氏寺とみられている。
當麻寺には中将姫伝説の当麻曼荼羅でよく知られている。中将姫の伝承は中世から近世にかけて能、浄瑠璃、歌舞伎などで演じられるようになる。當麻寺の伽藍は治承4年(1180)の平重衡の南都焼き打ちに遭い、金堂、講堂等は鎌倉時代に再建されたものが今に残る。
三重塔は東西に2基あり、南都焼き打ちの際も焼失を免れて東塔は奈良時代後期、西塔は平安時代前期に建立されたと推定されるものが今に残る。東西2基の塔が創建当時から現存しているのは當麻寺だけ。
相輪は一般には9輪であるが當麻寺の三重塔は東西ともに8輪。東塔は22.2m。水煙が魚骨状の特異なデザイン。初層3間、2,3層は2間の構造で檜造り。西塔は25.2m。水煙は未敷蓮華のデザイン。初層から3層まで3間の構造で、ケヤキ造りとなっている。平安時代の塔の建築に広葉樹が使われているのは異例という。(2013年6月27日撮影) |
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重文 百済寺三重塔 奈良県北葛城郡広陵町大字百済1168 |
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百済寺 三重塔
百済寺は伝承によれば聖徳太子建立の百済大寺の故地であるという。百済大寺は7世紀初めに創建された官寺で、平城京に移転して南都7大寺の一つ大安寺となったとされる。しかし出土品等の証拠がなく、ここに百済大寺があったという説は現在では疑問視されている。
江戸時代初期には6坊を数え、それなりの規模を保っていたようだが、現在は三重塔と小規模の堂が残るのみ。隣接する春日若宮神社によって管理されている。奈良の地ではこの程度の建物はさして重要視されていないのだろうか。三重塔は鎌倉時代中期の建築。和様の堂々たる姿だが、これだけ素晴らしい三重塔がある寺が無住職であるのが不思議。のどかな田園地帯にひっそりと建つ塔がなんともいじらしく感じてしまう。
百済寺へは近鉄の田原本町駅からタクシーで向かった。帰りはバス便か無ければタクシーでも拾えばいいと安直に考えていたがそれが大きな間違い。バス停がないかと付近を歩いたが、土地勘のない場所で方向が分からず迷う。タクシーを探そうにも私の携帯にはその種のアプリはない。ちょっと歩き疲れた時に広陵町立の体育館にたどり着き、そこでタクシーの手配をしてもらう。もっともそのお陰で落ち着いた町並の百済の集落を見学できたのは収穫だった。(2013年6月27日撮影) |
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国宝 法起寺三重塔 奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873 |
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法起寺 三重塔
法起寺は旧来は”ほっきじ”と発音されたが、現在は”ほうきじ”と読むのが正しいようだ。寺伝によれば聖徳太子は推古天皇30年(622)山背大兄王に太子が法華経を講義したという岡本宮を寺に改めよと遺命し、舒明天皇10年(638)になって福亮僧正が金堂を建立し弥勒物を安置したことに始まるとされる。近時の発掘調査により創建当時の伽藍の様子が解明され、近くの法隆寺とは逆の金堂が西、塔が東の配置にとなっていたという。
三重塔は天武天皇13年(684)に起工し慶雲3年に完成したとされる。日本最古の三重塔である。初層と2層は三間だが、3層は二間という特殊な構造である。また法隆寺の五重塔の初層、三層、五層の大きさが法起寺の塔の初層、二層、三層とほぼ等しいという。ただし法隆寺の五重塔や中宮寺の塔跡の心楚が地中深くに据えられているのに対して、法起寺の心楚は基壇の途上に据えられており、このことから建築年代は法隆寺よりも新しいとされる。(2013年6月27日撮影) |
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重文 霊山寺三重塔 奈良県奈良市中町3879 |
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霊山寺 三重塔
霊山寺(りょうせんじ)の起こりは小野妹子の子で右大臣であった小野富人が壬申の乱(672)に加担したことで職を辞し、現霊山寺のある登美山に蟄居し、薬師如来を祀ったことからとされる。小野富人は「鼻高(びこう)仙人」と呼ばれたという。その後聖武天皇の皇女(後の孝謙天皇)が病となったときに、夢に鼻高仙人が現れ、薬師如来の霊験を説いたという。天皇は僧の行基に命じて登美山の薬師如来に祈願させたところ病が平癒したことから天皇の命により行基が寺を建立。天平8年(736)東大寺大仏開眼の導師を務めたインドの僧、菩提僊那がこの地を訪れ、登美山の地形がインドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることから霊山寺と名付け、聖武天皇からは「鼻高霊山寺」の額を賜ったとされる。
本尊は平安時代の作とされる薬師如来。本堂は鎌倉時代の弘安6年(1283)建立された和様仏堂の代表作として国宝に指定されている。三重塔は文和5年(1356)に建立された桧皮葺きの鎌倉時代建築様式を代表する塔。国の重要文化財に指定されている。(2017年2月19日撮影) |
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国宝 興福寺三重塔 奈良県奈良市登大路町48 |
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興福寺 三重塔
興福寺は何度か訪れているが、三重塔を見るのは初めてのことで、恥ずかしながら興福寺に三重塔があると知ったのは最近のこと。しかも、調べれば興福寺では最古の建物の一つという。五重塔よりも歴史は古い。
初代の三重塔は康治2年(1143)崇徳天皇の中宮・皇嘉門院により創建されたが、治承4年(1180)の平氏による南都焼き打ちによって焼失。建築様式から推定して、その後すぐに再建されたとされる。鎌倉時代の建築ではあるが木割が細く軽やかで優美な姿。これは平安時代の建築様式を伝承しているといわれる。
南円堂の奥、境内の端にひっそりと佇む姿は、時代の変化とは無縁の、正に古都奈良を象徴しているようだ。(2013年6月27日撮影) |
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