五重塔三重塔 国宝・重要文化財の三重塔(2)


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国宝・重要文化財の五重塔 近代建築の五重塔 国宝・重要文化財の三重塔 主要な三重塔

※塔の高さは確かな資料に基づくものではなく目安です。
国宝・重要文化財の三重塔
  寺院名  所在地  建立時期  高さ(m)  訪問日 
重文  石手寺  愛媛県松山市2−9−21  文保 2年(1318) 24.1 2013.06.23
国宝  向上寺  広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田57  永享 4年(1432) 19.5 2017.03.27
重文  天寧寺   広島県尾道市東土堂町17−29   嘉慶 2年(1388) 25 2017.03.27
重文  西国寺   広島県尾道市西久保町29−27   永享 元年(1429) 22.3 2017.03.27
重文  宝福寺    岡山県総社市井尻野1968  永和 2年(1376) 18.5 2014.10.21
重文  遍照院 岡山県倉敷市西阿知野464  応永23年(1416) 21 2014.10.20
重文  福生寺   岡山県備前市大内999  嘉吉 元年(1441) 19.7 2020.01.12
重文  真光寺  岡山県備前市西片上1513    室町時代中期 18.2 2014.10.22
重文  本山寺  岡山県久米郡美咲町定宗403   承応 元年(1652) 26 2021.03.06
重文  長福寺  岡山県美作市真上414  弘安 8年(1285) 22 2021.03.05
国宝  一乗寺  兵庫県加西市坂本町821−17  大永 7年(1527) 21.8 2021.03.07
重文  名草神社  兵庫県養父市  永禄 8年(1565)    
重文  斑鳩寺  兵庫県揖保郡太子町鵤709  永禄 8年(1565) 24.8 2017.03.28
重文  石峯寺   兵庫県神戸市北区淡河町神影    室町中期 24.4 2018.03.20
重文  六条八幡宮   兵庫県神戸市北区山田町  文正 元年(1466)  19.1 2018.03.20
重文  如意寺  兵庫県神戸市西区櫨谷町谷口   至徳 2年(1385) 21.3 2018.07.26
重文  南法華寺(壷阪寺)  奈良県高市郡高取町壺阪3  明応 6年(1497) 23.6 2017.02.19
国宝  當麻寺(東塔) 奈良県葛城市當麻1263   奈良時代後期  22.2 2013.06.27
国宝  當麻寺(西塔)  奈良県葛城市當麻1263   平安時代前期  25.2 2013.06.27
重文  百済寺 奈良県葛城郡広陵町百済1168   鎌倉時代中期  23 2013.06.27
国宝  法起寺  奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873  慶運 3年( 706)  23.9 2013.06.27
重文  霊山寺  奈良県奈良市中町3879  文和 5年(1356)  17 2017.02.19
国宝  薬師寺(東塔)   奈良県奈良市       
国宝  興福寺    奈良県奈良市登大路町48  鎌倉時代初期 19.1 2013.06.27
国宝  浄瑠璃寺  京都府木津川市加茂町西小札場  治承 2年(1178)  16 2017.02.20
重文  岩船寺   京都府木津川市加茂町岩船   嘉吉 2年(1442)  20.5 2017.02.20
重文  宝積寺   京都府乙訓郡大山崎町銭原1  慶長 9年(1604) 19.5 2016.03.25
重文  清水寺  京都府京都市東山区清水1  寛永 9年(1632) 15 2013.06.28
重文  清水寺(子安塔)  京都府京都市東山区清水1   寛永期  22 2013.06.28
重文  金戒光明寺(文殊塔)  京都府京都市左京区黒谷町121   寛永11年(1634)  2013.06.28
重文  金剛院   京都府舞鶴市        
重文  園城寺(三井寺)  滋賀県大津市園城寺町    鎌倉時代後期  24.7 2014.04.05
重文  長命寺   滋賀県近江八幡市長命寺町157 慶長 2年(1597) 24.4 2014.04.05
重文  総見寺   滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 享徳 3年(1454) 20 2014.04.05
国宝  常楽寺 滋賀県湖西市    
重文  金剛輪寺     滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺873  寛元 4年(1246)  22 2014.04.06
国宝  西明寺  滋賀県犬上郡甲良町池寺26    鎌倉時代後期 23.7 2014.04.06
国宝  明通寺  福井県小浜市門前5−22  文永 7年(1270)  22.1 2015.07.29
重文  那谷寺   石川県小松市  寛永19年(1642)    
重文  乙宝寺   新潟県胎内市乙1112  元和 5年(1619) 24.2 2015.05.24
重文  新海三社神社   長野県佐久市田口2394  永正12年(1515) 20 2012.04.15
国宝  安楽寺   長野県上田市別所温泉2361  正応4年(1290)頃 18.7 2012.04.16
重文  前山寺   長野県上田市前山300    室町時代初期 19.5 2012.04.16
重文  信濃国分寺   長野県上田市大字国分1049   室町時代中期 19.7 2012.04.15
国宝  大法寺  長野県小県郡青木村  正慶 2年(1333) 18.6 2012.04.16
重文  真禅院  岐阜県不破郡垂井町宮代朝倉 寛永20年(1643) 25.4 2015.07.28
重文  日吉神社    岐阜県安八郡神戸町神戸1  天正13年(1585) 24.7 2016.07.29
重文  新長谷寺  岐阜県関市長谷寺1   寛正 4年(1463) 20.1 2016.07.29
重文  甚目寺   愛知県あま市甚目寺東門前4   寛永 4年(1627) 25 2012.08.28
重文  三明寺  愛知県豊川市豊川町波通37   享禄 4年(1531) 14.5 2011.12.17
重文  油山寺  静岡県袋井市村松1  慶長16年(1611)  23 2011.12.18
重文  三渓園   神奈川県横浜市中区本牧三之谷  康正 3年(1457) 23.9 2006.02.19
重文  成田山新勝寺  千葉県成田市成田1  正徳 2年(1712) 25 2011.05.27
重文  小山寺 茨城県桜川市冨谷2190    寛正 6年(1465) 21.4 2012.04.02
重文  西明寺  栃木県芳賀郡益子町益子4469  天文 6年(1537) 18.2 2012.04.02
重文  四本龍寺(輪王寺)  栃木県日光市山内  元禄 3年(1690) 18 2016.05.26

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国宝 浄瑠璃寺三重塔 京都府木津川市加茂町西小札場40 


   浄瑠璃寺 三重塔


 寺伝によれば浄瑠璃寺(じょうるりじ)の創建は永承2年(1047)、義明上人によって開基されたとされる。本尊は国宝に指定されている「九体阿弥陀如来」。本尊を安置する本堂も嘉承2年(1107)の建立で国宝に指定されている。屋根はもともとは檜皮葺であったが江戸時代後期に瓦葺きに変更された。
 三重塔は治承2年(1178)に京都一条大宮から移築されたと記録されるが、どの寺院から移築されたのか分かっていない。初層の内部に心柱がなく、心柱は初層の天井から建てられている珍しい構造。初層に仏壇を置き、国の重要文化財に指定されている薬師如来像を安置。
 浄瑠璃寺は行政的には京都府であるが、地理的には奈良の平城宮や東大寺に近く、鎌倉時代の石仏、石塔が点在する「当尾の里」と呼ばれた山深い地にある。境内は浄土式庭園風に形成され、大きな池を中心とし、池の中央の小島には弁財天を祀る洞、東岸には三重塔、西岸には本堂が配置され、素朴で控え目、落ち着いた佇まいを見せる。この庭園は久安6年(1150)に興福寺の僧、恵信によって築かれたとされ国の特別名勝に指定されている。早朝に寺を訪れ、しばし庭園の池のほとりで瞑想すれば、凡人の私にも極楽浄土の風景が浮かんでくるようだ。(2017年2月20日撮影)  

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重文 岩船寺三重塔 京都府木津川市加茂町岩船上の門43 


    岩船寺 三重塔


 浄瑠璃寺を参拝(三重塔の写真を撮るのが目的であったが)のあと、岩船寺(がんせんじ)に向かう。浄瑠璃寺からバスで10分足らずの距離にある。寺伝によれば岩船寺の創建は天平元年(729)聖武天皇の命を受けた行基が阿弥陀堂を建立したことに始まる。その後弘法大師(空海)の姉の子である智泉大徳が弘仁4年(822)に伽藍を整備したという。本尊は天慶9年(946)の作とされる阿弥陀如来で、国の重要文化財に指定されている。三重塔は寺伝では承和年間(834〜847)に建立されたとするが、嘉吉2年(1442)に建立されたものが現在に残る。
 岩船寺で貰った案内書には、境内に咲く四季折々の花が紹介されていたが、訪れたのは2月の中旬。今年は春の訪れが遅いのか、この時期にして寒さ厳しい日だった。おまけに空は雨が降り出しそうな雲に覆われている。とはいえ花のない境内もそれなりにいい雰囲気を醸し出している。寒さに震えながら人の気配の少ない境内を散策するのは、不信心者にもよい精神修養になる。(2017年2月20日撮影) 

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重文 宝積寺三重塔 京都府乙訓郡大山崎町銭原1 


    宝積寺 三重塔


 宝積寺(ほうしゃくじ)は天正10年(1582)秀吉と明智光秀が山崎で戦った際に秀吉が本陣とした場所とされる。山城国と摂津国の境に位置する天王山の南側山腹に建てられている。聖武天皇が夢で龍神から「打出」と「小槌」を授かり、それを祀ることから”宝寺”の別名もある。寺伝では神亀元年(724)に聖武天皇の勅願により行基が建立したとされ、歴史は古い。
 宝積寺を訪れたのは三月の下旬、境内に植えられた桜がようやく開花したころ。寒の戻りで北風も吹く少し寒い日。JR山崎駅から徒歩で約10分ほどの近距離にあるが、途中は息が切れるほどの急坂がある。ここを秀吉が陣所としたのが理解できる。坂を登りきり、山門への石段を上がると重要文化財に指定されている三重塔が右手に見える。慶長年間に建てられたとされる本堂、鎌倉時代に作られた重要文化財の閻魔像を祀る閻魔堂へはさらに緩やかな坂を上がる。
 三重塔は室町時代の和様形式によって建てられている。秀吉が山崎の合戦での死者を弔うために一夜で建立したという言い伝えもある。(2016年3月25日撮影)  

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重文 清水寺三重塔 京都府京都市東山区清水1−294


    清水寺 三重塔


 清水寺には何度訪れただろうか。片手の指では足らない程度には行った。しかし朝6時の開門時刻に訪ねたのは初めて。とはいえ夏の朝は早い。既に辺りは明るく人の動きもある。私と同時刻に寺を訪れた参拝客(観光客)は数十人はいた。さすが京都を代表する寺院の一つである。
 清水寺の創建は伝承によれば宝亀9年(778)興福寺の僧・賢心が観音の化身に出会い、千手観音像を安置したことから。その2年後には坂上田村麻呂が自宅を本堂として寄進。さらに蝦夷地平定を成し遂げ帰京した田村麻呂は延暦17年(798)に本堂を大改築したという。
 清水寺の伽藍は記録にあるだけで9度焼失した。現在に残る本堂は寛永10年(1633)徳川家光の寄進によって再建されたもの。 
 三重塔は承和14年(847)に創建されたが、現在に残る塔は寛永9年(1632)に再建されたもの。高さは約29mで三重塔としては最大級。昭和62年(1987)の解体修理時に彩色も復元。寛永期の総丹塗りに戻した。(2013年6月28日撮影)
 

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重文 清水寺三重塔(子安塔) 京都府京都市東山区清水1−294


  清水寺 三重塔(子安塔)


 清水の舞台から錦雲渓を隔てた丘の中腹に子安塔と呼ばれる三重塔が見える。塔の名前の通りここには安産を祈念する子安観音(千手観音)が祀られている。この塔の創建時期については明確な資料はないが、現存する塔は江戸初期、寛永期に建てられたもの。ちょうど私が訪れた時、平成25年(2013)の修復が完了して建立当時の鮮やかな朱塗りの塔に蘇っていた。子安塔はもとは仁王門の門前に建てられていたが、明治末期に現在地に移築されたという。
 子安の塔は高さが15mと小振りだが西門に位置する三重塔が瓦葺であるのに対して檜皮葺で、装飾の少ない均整のとれた姿もいい。また、清水の舞台から眺める子安の塔の反対に、子安の塔から眺める本堂や三重塔の景観は見ごたえがある。(2013年6月28日撮影)  

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重文 金戒光明寺三重塔(文殊塔) 京都府京都市左京区黒谷町121


 金戒光明寺 三重塔(文殊塔)


 文殊塔として親しまれる三重塔がある金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は承安5年(1175)法然上人によって開基されたと伝えられる。比叡山黒谷を下った法然はこの地を訪れ、大岩に腰を下ろした際にその岩から紫の雲がわき出て西の空に光明が放たれたという。そこで法然はここに草庵を建てたのが寺の始まりという。法然が最初に浄土宗を布教した地であり、法然の縁起に因み寺名を紫雲山光明寺とした。後に後光厳天皇に戒を授けたことにより金戒光明寺と呼ばれるようになった。江戸時代初期に境内は城郭構造に改修され、幕末の文久2年(1862)会津藩京都守護職の本陣となる。侠客・会津小鉄はこの時中間として出入りしていたという。
 三重塔は寛永11年(1634)徳川秀忠の菩提を弔うために建立されたものが現在に残る。塔の高さは22m。境内の最頂部に建てられ京都市街が一望できる。塔内に運慶作と伝えられる文殊菩薩と脇侍像を安置していたので文殊塔の名で呼ばれるようになった。ただし現在は御影堂に安置されている。(2013年6月28日撮影) 

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重文 園城寺(三井寺)三重塔 滋賀県大津市園城寺町


  園城寺(三井寺)三重塔


 三井寺には何度か訪れたが、桜の季節は初めて。琵琶湖疏水の堤防沿いに植えられた桜並木を通って三井寺の山門に着く。まだ人の気配の少ない早朝、開門を待って境内に入る。信仰心のない私だが、静寂とした寺の佇まいに身が洗われる思いになる。この一時だけは何も求めず、何も悩まず、ひたすら無の境地でありたいと、そんな気分になる。
 三井寺(長等山園城寺)は七世紀に大友氏の氏寺として創建され、九世紀に僧・円珍によって天台寺門宗として再興された古刹。
 三重塔は元は大和・比曽(蘇)寺(現・曹洞宗世尊寺)にあったもので、豊臣秀吉が文禄3年(1597)に伏見城観月橋下に移築。更に慶長6年(1601)に徳川家康が三井寺に移築し寄進したもの。鎌倉時代末期から室町時代に建立されたと推定される。数奇な運命を経た三重塔の和様の堂々とした風格は全てを厳粛に、そして寛容に受け入れることの意味を教えてくれているように感じる。(2014年4月5日撮影)
 

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重文 長命寺三重塔 滋賀県近江八幡市長命寺町157


    長命寺 三重塔


 以前にこの寺を訪れた時は山腹にある寺の真下の駐車場まで車で登った。今日は麓から800段以上ある長い石段を登った。石段をのぼりつめると三重塔が迎えてくれる。”苦労が報われる”見事な寺の演出である。
 長命寺は琵琶湖畔の長命寺山の中腹に建つ。寺の伝承に因んだ名前の通り参拝すれば”長命”が叶うといわれている。ただし、私が訪れた目的は三重塔を写真に収めること。自身の長命は、全ては定められた運命に任せることにしている。
 三重塔は三間三重、こけら葺。各層に高欄付けの縁が設けられている。初層、二層の屋根のこう配が江戸期に比べて急であり、桃山期の特徴をもった塔。私が訪れた少し前、こけら葺屋根の葺き替え、建物の丹塗り、黄土の塗り替え工事等の保存修理が完了したとのことで、建立時の姿に甦っていた。前回の修理は約50年前であったとか。おそらくこの先50年後には同様の修理を必要とする。日本の木造建築は定期的な補修が必要。今回の修理でも億に近い費用がかかったはず。私はとうにこの世にいないが、次回もこのための費用が確保されることを本尊の観音様にお祈りした。(2014年4月5日撮影) 

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重文 総見寺三重塔 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6367


    総見寺 三重塔


 総見寺(そうけんじ)は安土城の城内に安土城築城と共に創建された寺。安土城は信長が天下布武の目的を達成するため天正4年(1576)から築城を開始し、その3年後には天守(天主)が完成。しかし天正10年(1582)信長が本能寺で暗殺されると焼失。ただし総見寺はその後も存続した。残念ながらほとんどの伽藍は安政元年(1854)の大火で焼失したが、仁王門、三重塔は残った。
 三重塔はもともと湖南の長寿寺に享徳3年(1454)に建立されたものを安土城築城時に移築したもの。三重塔の他、総見寺には近隣の寺社から多くの建物が移築されたといわれる。
 安土城の焼失、安政の大火にも生き残り現在に伝わる三重塔は奇跡にも近い存在に感じられる。しかし、その佇まいは少々無残にも見える。荒れた寺院にひっそりと建つ三重塔はそれなりに絵になる光景だが、この先の風雪に耐えられるか心配。重要文化財に指定はされているが宗教と国の行う文化財保護の関係は難しい問題だ。信長なら如何解決する。(2014年4月5日撮影)  

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重文 金剛輪寺三重塔 滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺873


   金剛輪寺 三重塔


 湖東三山を巡ったことはあるが、それが何時だったか正確には覚えていない。そんなに昔のことではないのだが、金剛輪寺で三重塔を見た記憶が無い。勿論今回金剛輪寺を訪れた目的は三重塔を写真に収めるためだ。だから三重塔の存在は事前に調べたが、それでも以前にこの塔を見たという記憶につながらない。ちょっともどかしい気分だ。しかも、金剛輪寺に着いた時は生憎の雨模様。誰の所為でもない。日頃の行いの悪い自分を恨むしかない。
 金剛輪寺には元寇の役の戦勝記念として弘安11年(1288)に建立され国宝に指定されている本堂がある。三重塔はそれより古い寛元4年(1246)に建立されたとする記録があるという。しかし、様式的には南北朝時代の建築に近いという。また、近世になって三層目が欠落して1970年代に修復復元されている。
 前回金剛輪寺を訪れたのは既に三重塔の修復復元工事は終わってかなり経ってからのこと。それなのに記憶にない、その理由が釈然としない。それに今回何枚もの三重塔を写真に収めたのだが、記憶媒体に残っていた三重塔の写真は片手ほどの枚数しかない。これも釈然としない。
(2014年4月6日撮影) 

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国宝 西明寺三重塔 滋賀県犬上郡甲良町池寺26


    西明寺 三重塔


 西明寺は金剛輪寺、百済寺とともに湖東三山の一つに数えられる天台宗の古刹。寺伝によれば平安時代初期の承和元年(834)の創建とされる。
 三重塔は鎌倉時代後期の建立とされ国宝に指定されている。檜皮葺きで和様建築。相輪が銅製でなく鉄製であること、屋根の逓減率が小さいことが西明寺三重塔の特徴とされる。また、初層内部には曼荼羅絵が四方に描かれており、これも重要文化財に指定されている。なお、金剛輪寺の三重塔の修復復元は西明寺の三重塔をモデルにしたとのこと。(2014年4月6日撮影) 

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国宝 明通寺三重塔 福井県小浜市門前5−22 


    明通寺 三重塔


 JR小浜線の東小浜駅で下車。ここから4キロほどの距離にある明通寺に向かう。歩くには少し距離があるが駅前にタクシーの姿はない。レンタサイクルの案内があったので借りることにする。自転車に乗った最後の記憶は40代初めの頃で、それ以来乗ったことはない。しかも借りたのは電動機付自転車である。内心びくびくで走り出したが、何のことはない。三つ子の魂・・ということか、身体が勝手に反応する。まだまだ若い自分を発見。明通寺へはずっと以前ではあるが二度訪れている。その時は車を運転してのことで、周りの風景に気を留めることもなかったが、自転車で風を切って走ると意識をしなくとも勝手に景色が飛び込んでくる。道々に咲く睡蓮や名前の知らない艶やかな花が気分を爽快にしてくれた。
 明通寺は平安時代の大同元年(864)坂上田村麻呂によって創建されたと伝えられる古刹である。三重塔は鎌倉時代、文永7年(1270)に建立されたもので本堂とともに国宝に指定されている。訪れたとき、参拝者は私一人であったのか、本堂にいた僧侶が手招きして迎えてくれる。本尊の薬師如来の前に正座して僧侶の説明を聞く。お布施を少し多め(私にしては)に置いて退出する。(2015年7月29日撮影) 

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重文 乙宝寺三重塔 新潟県胎内市乙1112 


    乙宝寺 三重塔


 乙宝寺は真言宗智山派の寺院。寺伝によれば天平8年(736)聖武天皇の勅願により行基菩薩、婆羅門僧正が開山したという。婆羅門僧正はインドより渡来した高僧で、釈迦の両眼の舎利を持ち、日本に来る前に立ち寄った唐の寺院「甲寺」に右眼を納め、左目をこの寺に納めたことから寺の名を「乙(きのと)寺」とし、後に宝の名を加えて「乙宝寺」としたという。三重塔は村上城主・村上義明が願主となり、元和6年(1620)に落成。柿葺、純和様式の素木造り。
 事前に見た寺の案内に最寄駅は羽越本線の平木田駅で、そこからタクシーで約10分とあった。それを信じて平木田駅で下車したが駅前にはタクシーはなく、無人駅でタクシーを呼びだす案内もない。引き返すにも次に電車が来るのは2時間以上先。ままよと、約4キロの道を歩く。鉄道を跨ぐ部分を除けば田圃の中の平坦な道。ひたすら歩いて約50分。一生忘れることのない三重塔見物となった。(2015年5月24日撮影) 

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重文 新海三社神社三重塔 長野県佐久市田口2394


  新海三社神社 三重塔


 名前の通り新海三社神社であるから寺ではない。三重塔があるのは江戸時代までの神仏習合の習わしからで、明治になってからの廃仏毀釈運動によって仏塔である三重塔が破壊を免れたのは”三重塔は宝庫”であるとしたためだという。三社というのは三つの神様を祀っているためで、神殿も三つある。主神は「興波岐命(オキハギノミコト)でこの神様は佐久地方を開拓した祖神で「新開(ニイサク)神」とも称され、開=サクが佐久地方の語源となり、新開が新海となり神社の名前の基になっているとされる。この神社の境内にはいくつかの古墳もある様で、古代から連綿とした時を受け継いでいるようだ。
 三重塔は、社伝では嘉祥2年(849)に建立されたとされるが、建築様式から室町中期の永正12年(1515)建立というのが定説のようだ。明治期には国宝に指定されたが、現在は国の重要文化財の指定を受けている。
 信濃の佐久地方と上田地区には国宝に指定された3重の塔が2基。国の重要文化財に指定された三重塔が3基。国の指定は受けていないが江戸時代建立の三重塔が2基ある。今回2日をかけてその全てを見て廻る予定である。(2012年4月15日撮影)  

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国宝 安楽寺三重塔 長野県上田市別所温泉2361


    安楽寺 三重塔 


 安楽寺は、伝承では天平年間(729〜749)に行基が建立したといわれ、 また、平安時代の天長年間(824〜834)の建立とも言われている。ただし、歴史的に裏付られるのは鎌倉時代以降である。
 安楽寺境内奥の山腹に建つ八角3重の塔は国宝に指定されている。四重に見えるが初重はひさしに相当するモコシである。鎌倉時代末期から室町時代に掛けて建立されたものと考えられている。
 近世以前の八角三重の塔としては日本最古の建物であり、かつ唯一のもの。また、全体が禅宗様式で造られ、仏塔としては稀な存在である。高さは18.75m。(2012年4月16日撮影)
  

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重文 前山寺三重塔 長野県上田市前山300


    前山寺 三重塔


 前山寺は信州の鎌倉と称される塩田平、別所温泉にある。 寺伝では弘仁年間、812年頃に空海上人が護摩修業の霊場として開山したとされる。山号は独鈷山。本尊は大日如来。本堂は萱葺きの古刹に相応しい趣のある建物。真言宗智山派のお寺。 
 三重塔は室町時代初期と推定されるが、確かな年代は不明。国の重要文化財に指定されている。
 「未完成の完成の塔」とも称され、”2,3重には窓もなく、廻廊や勾欄がない。長い胴貫が四方に突き出しており、これがうまく調和を持たせている。”そう言われて初めて気づくが、普通に見て、まったく違和感を感じさせない美しい姿をしている。未完と言われなければ完成した塔そのものの姿に見える。萱葺きの本堂と三重塔が歴史の重さを感じさせてくれる。(2012年4月16日撮影) 

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重文 信濃国分寺三重塔 長野県上田市大字国分1049 


   信濃国分寺 三重塔


 国分寺建立の詔は天平13年(741)に出されたが、その前年の天平12年(740)に七重の塔を建立せよとの詔が出されている。その通りに国分寺と七重の塔が建立されたのか調べていないのでわからないが、おそらく多くの国分寺、多くの七重の塔が建立されたのではと思う。しかし残念ながら現在に残る七重の塔は何処にもない。
 信濃国分寺も、当初建立された場所は現在の国分寺から少し離れた所にある。建物は一切残っていないが、東大寺式の伽藍配置で七重の塔が建立されていたらしい。今更それを再建するなど愚かしいことだとは思うが、現在の国分寺に立ち寄る前に古代の国分寺跡に立って、昔の栄華を想像するのも悪くはない。
 現在の国分寺に立つ三重塔は室町時代中期に建立されたもの。国の重要文化財に指定されている。青木村の大法寺に残る国宝の三重塔(鎌倉時代の末期に建立)と外観が似ているらしいので、それを写したのではとも言われている。とはいえ、江戸後期に再建された本堂とともに立ち並ぶ姿は堂々とした風格を備えた美しい姿の塔である。(2012年4月15日撮影)  

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国宝 大法寺三重塔 長野県小県郡青木村


    大法寺 三重塔


 大法寺を訪れたのは平日のちょうど昼食の時間帯。私が到着したときそれまでお堂にいた住職(多分?)が昼食を理由に留守にするという。お堂の前には拝観料を入れる箱が置いてある。無人の箱の中に自分でお金を入れて勝手に見ろということのようだ。実にのんびりとした、大らかな、なんとも気分のいいお寺の雰囲気である。しかも、三重塔は国宝の名に恥じない立派な姿だ。こんなことで、ちょっと得した気分になる。三重塔は”見返りの塔” と呼び名されているが、まさにその通りで何度も振り返りながらお寺を後にした。
 伝承では大法寺の創建は奈良時代、大宝年間(701〜704)で藤原鎌足の子、定恵とされるが、定恵の生存年代とは整合性がないようで確かなことは不明。平安後期作の十一面観音が安置されていることから、創建もその時代ではと推測されている。天台宗の寺院で山号は一乗山。
 三重塔は正慶2年(1333)に建立されたもので、寺の案内書によれば「2重、3重で組物を三手先というもっとも正規な組み方をしているのに対して、初重だけは少し簡素な二手先にし、その分だけ平面が大きくなっている。この手法の三重塔は他には奈良興福寺の三重塔だけの珍しいもの」とある。(2012年4月16日撮影) 

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重文 真禅院三重塔 岐阜県不破郡垂井町宮代朝倉2006


    真禅院 三重塔


 真禅院は号を朝倉山といい、元々は美濃国一之宮である南宮大社の神宮寺であったが、明治維新の神仏分離令によって仏堂を分離して現在地に移転。本堂、三重塔もこのときに移築された。本堂(旧南宮大社の本地堂)は寛永19年(1642)、三重塔は寛永20年(1643)の建立とされ、いずれも国の重要文化財に指定されている。
 真禅院を訪れたのは今回で三度目だと思う。私はもともと東海地方に住んでいたので、初詣で南宮大社を参拝したのは何度かある。そのついでに二度ほど真禅院を訪れている。しかしそれも随分と昔のことだ。三重塔を背景にまだ幼い子供を写した写真は残っているが、そのとき訪れたのは雪の舞う寒い日で、暖を取るための焚火が印象に残っている程度で三重塔の姿は消え去っている。今回は真夏の季節。参拝者の姿は私の他に見当たらない。冷を求めて木陰に入り堂々とした姿の三重塔を眺める。今度はしっかりと脳裏に刻み込んだ。多分、それほど長くもない人生の、私の記憶から消え去ることはないだろう。
 帰り道、かっては美濃国の国府が置かれた垂井の町をのんびりと歩く。これも楽しい思い出としてしっかり刻み込んだ。(2015年7月28日撮影)
 

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重文 日吉神社三重塔 岐阜県安八郡神戸町神戸1 


   日吉神社 三重塔


 日吉神社(日枝神社・山王神社を含む)を名乗る神社は全国に2000社余りあるという。岐阜県神戸町にある日吉神社は平安時代の弘仁8年(817)に最澄が創建したと伝えられる神社。最澄は比叡山に延暦寺を建立したが、比叡山の地主神である日吉神社(滋賀県大津市)を延暦寺の守護神として崇めたとされる。
 三重塔は室町時代後期に建立されたものを天正13年(1585)に秀吉の家臣で美濃清水城の城主であった稲葉良通(一鉄)が修造したものとされる。因みに良通は号を”一鉄”と称したが、頑固者であったため”頑固一徹”の語源になったという説がある。また、春日局(斎藤福)の養祖父でもある。
 神戸町の日吉神社を訪ねたのは真夏の午後4時ごろ。陽射しはまだ容赦なく照りつける。それでも神社の木立の日陰にはわずかながらも風が通る。生きるか死ぬか、波乱万丈の戦国時代を駆け抜けた武将がどんな思いでこの三重塔を修造したのかと、そんな妄想を頭に浮かべて半時ほどを過ごした。(2016年7月29日撮影)  


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重文 新長谷寺三重塔 岐阜県関市長谷寺1 


   新長谷寺 三重塔


 新長谷寺(しんちょうこくじ)は貞応元年(1222)の開山という由緒ある寺。山号を吉田山と号し、本尊を11面観音とすることから”吉田観音”の名で親しまれている。現在残る伽藍の多くは室町時代から江戸時代にかけて再建されたもので国の重要文化財に指定された建物も数多い。三重塔は寛正4年(1463)に建立されたものが現在に残る。
 この寺の入口に”境内全域撮影禁止”の立て看板がある。「境内での撮影を禁止」したものであるのか「境内にある建物等すべてを撮影の対象にすることを禁止」したものであるのか解釈に迷うが、外から撮る分には構わないだろうと解釈して写真に収める。それでも何か盗み撮りをしたような気分で後味はよくない。写真撮影だけが目的で信心のない者は立ち入るなということのようだが、信心薄い迷える子羊(私は迷ってはいないが偏屈者)を救う宗教家にしてはちょっと度量が狭いのでは・・・。信仰の対象を写真に撮るなとの趣旨とは思うが、建物が国の重要文化財に指定されていなければ「撮影禁止」の看板を立てたかどうか・・・。なんだか宝物を独り占めにしているいじめっ子のような・・・。そんな意識を持つのは私が無法者だからか。(2016年7月29日撮影) 

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重文 甚目寺三重塔 愛知県あま市甚目寺東門前24 


    甚目寺 三重塔 


 甚目寺は尾張4観音の一つ。尾張4観音は名古屋城を中心としてその恵方の4方角に建つ。やはりその一つである笠寺観音の近くで生まれ育った私は甚目寺観音の名前は子供のころから知っていた。知ってはいたが訪れたのは今回が初めて。訪れた時は平日の早朝。人っ子一人いない只だだっ広いだけの境内だが、甚目寺が最も賑わいをみせるのは節分会の時だと思う。その時は大勢の参拝客で埋まるのに違いない。三重塔は少し離れた場所に立ち、力強く張り出した瓦屋根の軒は見る者に安定感と落ち着いた情緒を感じさせる。三重塔は数百年もの間、境内を埋め尽くした参拝客を静かに見守っていたに違いない。そんな情景を想像してみたくなる空気が漂っている。
 甚目寺は真言宗智山派の寺。山号は鳳凰山。甚目寺観音の通称名で親しまれている。創建は寺伝では推古天皇6年(597)とされる。現在残る三重塔は寛永4年(1627)に建立されたもの。高さ25mの立派なものである。(2012年8月28日撮影) 

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重文 三明寺三重塔 愛知県豊川市豊川町波通37 


    三明寺 三重塔


 寺伝によれば、大宝2年(702)文武天皇が三河に行幸の際、僧”覚淵”に命じて建立したのが始まりとされる。平安時代末期に兵火により焼失・荒廃するが、応永年間(1394〜1428)に後醍醐天皇の第11皇子である無文元遷禅師によって再興される。この時、曹洞宗に改宗し三重塔も建立された。現存する三重塔は享禄4年(1531)に再建されたもので、宝堂内にある宮殿とともに国の重要文化財に指定されている。三明寺の三重塔の特徴は1,2階が和様式。3層目が禅宗様式で建てられていることにある。小振りながら500年以上の風雪に耐えた堂々たる風格を備えている。本堂は正徳2年(1712)に再建されたもので、弁財天を安置する本堂内の宮殿は天文23年(1554)に作られたもの。
 遠目に見た三明寺の塔や本堂は堂々としたものだったが、近くで見ると少々痛々しく感じる。特に三重の塔は屋根の葺き替えを必要とするほど傷んでいる。昨今の財政事情は重要文化財に指定された建物にも補修の手が回らないのだろうか。寺の敷地は何の囲いもなく誰でも何処からでも自由に出入りできるのは、それはそれで素晴らしいことなのだろうが、何だか無防備すぎるようにも感じる。何とかならないのかと、何時もより多めに賽銭を投げいれたが、その程度では何の役にも立ちはしないだろうと自力のなさに諦めるしかない。(2011年12月17日撮影)  

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重文 油山寺三重塔 静岡県袋井市村松1 


    油山寺 三重塔


 医王山油山寺は法多山尊永寺、萬松山可睡斉とともに遠州三山といわれる名刹。大宝元年(701)に行基が創建し、油がわき出たことから油山寺の名が付いたと伝えられている。
 元亀元年(1572)に兵火により伽藍が焼失。天正2年(1574)に三重塔の再建が開始されたが、完成したのは慶長16年(1611)であった。  三重塔は国の重要文化財に指定されている。この他、寺の山門は掛川城の大手二の門を明治期に移築したもので、本堂内に安置されている室町時代作の厨子とともに国の重要文化財に指定されている。
 油山寺は紅葉の名所として有名だが、訪れたのは盛りの過ぎた12月の末近く。浜松に泊まった早朝に訪ねた。まだ太陽が昇らぬ6時ごろに 誰もいない駐車場に車を止める。山間の冷えた空気が眠気を吹き飛ばしてくれた。明るくなるのを待って寺内に入ると、同時に訪れた地元の参拝客に挨拶をされる。毎朝近くの寺院に参拝することから一日が始まる生活も良いものだなと、そんな気分にさせる。(2011年12月18日撮影)
 

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重文 三渓園三重塔 神奈川県横浜市中区本牧三之谷58−1 


    三渓園 三重塔


 三渓園は神社仏閣ではない。したがって、ここにある三重塔はもとからここにあったものではない。京都府相楽郡賀茂町(元木津川市)にあった燈明寺から大正3年(1914)に移築したものである。三重塔は室町時代の康正3年(1457)に建立されたもの。燈明寺は明治になって荒廃・廃寺となっていた。
 三渓園の創始者原富太郎(号:三渓)は生糸の貿易で巨万の富を築いた実業家で文化財の収集家として著名な人物。三渓園には燈明寺の三重塔を含めて重要文化財に指定されている建物が12棟集められている。
 荒廃・廃寺となったお寺から建造物を移築するのは文化財保護の面から必要なこと、との側面もあるが宗教的建物を単に文化財としての意味からだけで保存するのは少々淋しい気もする。無神論者の私が言うのもおかしなことだが、本来の目的が果たされないのでは保存の意味も薄らぐのではないか。燈明寺の三重塔にお釈迦様の遺骨があったかどうか知らないが、ストゥーバの役割を持たないのでは、ロンドンの美術館でエジプトパラオの美術品を見るのと同じで心が揺さぶられない。どうせなら、寺ごと再建して文化財を守ってほしかった。(2006年2月19日撮影)
 

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重文 成田山新勝寺三重塔 千葉県成田市成田1 


  成田山新勝寺 三重塔


 成田不動、あるいは単に「成田山」と呼ばれる関東有数の参拝客の多い成田山新勝寺。真言宗智山派の大本山の一つ。本尊は不動明王。寺の歴史は平安時代中期の平将門の乱を鎮圧祈願するために天慶2年(939)朱雀天皇の命により寛朝大僧正が空海作と伝えられる不動明王を奉じて東国に下り、天慶3年に上総の国に上陸したことを起源としている。
 戦国時代には荒廃していたが、江戸時代になって、度々成田不動の「出開帳」が江戸の町で行われ、また歌舞伎役者の市川団十郎の帰依もあり、成田詣でが盛んになる。
 大本堂は昭和43年(1968)に建てられた鉄筋コンクリート製の大伽藍だが、江戸時代に建てられた仁王門、三重塔、釈迦堂、額如何、光明堂などの建物がいくつか残り、それぞれ重要文化財に指定されている。 
 三重塔は正徳2年(1712)に建立された。高さ25m。軒裏には垂木を用いず、雲文を刻んだ板で軒を支える板軒となっている。初層各面の扉の両脇の柱間には16羅漢の彫刻が配置され、そのほかにも柱、長押等の部材に地紋彫りがされる等、装飾性豊かな三重塔である。(2011年5月27日撮影) 

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重文 小山寺三重塔 茨城県桜川市冨谷2190


    小山寺 三重塔


 小山寺は富谷観音の名で親しまれている。号は施無得畏山宝樹院。ここは初めて訪れたお寺である。平日のまだ早い時刻であったが、数十台駐車できる駐車場は私の車だけ。駐車場から境内まではほんの少しの距離。麓から歩けば相当の労苦が伴うであろうが、現代人は安直に物事を進めるのが得意である。小山寺のある山は桜川市が整備したふれあい公園にもなっているようで、大木の生い茂る境内で朝の清々しい空気を胸一杯に吸い込む。信心のない私にも心の安らぎを覚えるひと時である。
 本堂に近づくと、誰もいない境内だと思ったが熱心に念仏を唱える人の姿がある。ちょっと悲壮感も漂う雰囲気。私のような信仰心のない不心得者が邪魔をしてはと思い、遠慮がちに境内を撮影して早々に立ち去る。
 小山寺は天平7年(735)聖武天皇の勅願により行基菩薩が開山したとされる。本尊の十一面観音像は行基の作と伝えられている。三重塔は寛正6年(1465)下妻城主であった多賀谷朝経によって再建されたもの。和様形式を基調として唐様の装飾も取り入れられている。国の重要文化財に指定されている。(2012年4月2日撮影) 

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重文 西明寺三重塔 栃木県芳賀郡益子町益子4469


    西明寺 三重塔 


 西明寺を訪ねたのは初めてではない。ここは坂東33ヵ所観音の第20番目の札所であり、平成14年(2002)の5月に訪れている。ちょうど10年前である。2002年はワールドカップが日本で開催された年だ。当時写した写真(デジタルではない)にも本堂の脇に三重塔が写っているが、全体が写ったものがない。写真に撮るため再度訪れた次第。今回は参拝はしたが朱印帳への書き入れは頼まなかった。早朝、平日の8時だというのに既に駐車場には数台の車が止まっている。昔も今も巡礼ブーム(と言っては失礼か)は衰えていないようだ。10年前に写真に写した西明寺と今とに違いがない。人の心や生活の環境は変わっても、仏や自然はそのままの佇まい。悠久の時を過ごすものの安らかさが伝わってくるようだと、吾にして殊勝な思いが浮んでくる。何の変化もないことは、それはそれで貴重なことなのだろう。
 独鈷山善門院西明寺の本尊は十一面観音。天平年間(729〜749)に行基菩薩によって開山されたとされる。楼門は明応元年(1492)。三重塔は天文7年(1538)に建立された。いずれも国の重要文化財に指定されている。(2012年4月2日撮影) 
 

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重文 四本龍寺三重塔 栃木県日光市山内 


   四本龍寺 三重塔


 日光を訪れたのは、団体旅行を含めればおそらく五本の指では数えられないほどの回数だと思う。ただしこれまでは東照宮を中心として見学しただけで周辺地域を歩いたことはなかった。華やかな装飾に彩られた寺院のイメージが強いが、今回訪れた寺院は少々違っていた。そこに至る道は京都の風情を思い起こすようなしっとり感があった。
 四本龍寺は大谷川に架かる「神橋」から近く、東照宮や輪王寺の三仏堂からはやや離れた、いわば外れの地にある。しかし四本龍寺の由緒を聞くと、この寺が日光開山の基であったという。開山は天平神護2年(766)で四本龍寺に観音堂や三重塔が創建されたのは大同2年(807)のこととされるが火災で何度か焼失。今残る三重塔は元禄3年(1690)に再建されたもの。東照宮山門前に建つ五重塔と比べれば装飾は少なく地味とも見えるが、初層の軒下には五重塔と同じく彩色を施した12支の彫り物が飾られている。これが唯一、四本龍寺もやはり日光東照宮、輪王寺の寺だとと思わせる。(2016年5月26日撮影) 

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