※塔の高さは確かな資料に基づくものではなく目安です。
その他主要な三重塔 |
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寺院名 |
所在地 |
建立時期 |
高さ(m) |
訪問日 |
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龍源寺 |
大分県臼杵市福良平清水134 |
安政 5年(1858) |
21.8 |
2015.04.25 |
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清水寺 |
福岡県みやま市 |
天保 7年(1836) |
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興隆寺 |
愛媛県西条市 |
天保 3年(1832) |
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興願寺 |
愛媛県四国中央市 |
貞享元年 |
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鶴林寺 |
徳島県勝浦町 |
文政10年(1827) |
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五流尊龍院 |
岡山県倉敷市林952 |
文政 3年(1820) |
21.5 |
2014.10.21 |
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曹源寺 |
岡山県岡山市中区円山1069 |
文政年間 |
20 |
2014.10.21 |
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西大寺 |
岡山県岡山市東区西大寺中3−8 |
延宝 6年(1678) |
22.1 |
2014.10.21 |
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成就寺 |
岡山県岡山市武部町富沢682 |
文化 5年(1808) |
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2021.03.04 |
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金山寺 |
岡山県岡山市北区金山寺481 |
天明 8年(1788) |
26.3 |
2021.03.04 |
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千光寺 |
岡山県赤磐市中島350 |
明和 2年(1765) |
20 |
2021.03.04 |
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餘慶寺 |
岡山県瀬戸内市邑久町北島 |
文化12年(1815) |
20.6 |
2020.01.12 |
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本蓮寺 |
岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓 |
元禄 3年(1690) |
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2020.01.13 |
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清水寺 |
島根県安来市清水町528 |
安政 6年(1859) |
33.3 |
2018.07.24 |
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高源寺 |
兵庫県丹波市 |
江戸時代 |
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相原八幡宮 |
兵庫県丹波市柏原町柏原3625 |
文化12年(1815) |
26.2 |
2018.03.19 |
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鶴林寺 |
兵庫県加古川市加古川町北在家 |
室町時代 |
18 |
2016.03.26 |
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千光寺 |
兵庫県洲本市上内膳2132 |
文化10年(1813) |
26 |
2020.01.16 |
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太山寺 |
兵庫県神戸市 |
貞享 5年(1688) |
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道成寺 |
和歌山県日高郡日高川町鐘巻 |
宝暦12年(1762) |
21.8 |
2016.03.26 |
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水間寺 |
大阪府貝塚市水間638 |
天保 5年(1834) |
20 |
2016.03.25 |
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法輪寺 |
奈良県生駒郡斑鳩町三井1570 |
昭和50年(1975) |
23.8 |
2013.06.27 |
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薬師寺(西塔) |
奈良県奈良市西ノ京町457 |
昭和56年(1981) |
34 |
2018.12.12 |
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三室戸寺 |
京都府宇治市莵道滋賀谷21 |
元禄17年(1704) |
16 |
2016.03.25 |
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真正極楽寺 |
京都府京都市左京区浄土寺真如町 |
文化14年(1817) |
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2013.06.28 |
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徳源院(清龍寺) |
滋賀県米原市清滝288 |
寛文12年(1672) |
15.5 |
2015.07.28 |
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日石寺 |
富山県上市町 |
弘化 2年(1845) |
25.8 |
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五智国分寺 |
新潟県上越市五智3−20−21 |
慶応 元年(1865) |
25.8 |
2011.-6.04 |
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妙光寺 |
新潟県新潟市 |
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光前寺 |
長野県駒ケ根市赤穂29 |
文化 5年(1808) |
17.1 |
2016.09.03 |
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真楽寺 |
長野県北佐久郡御代田町塩野 |
寛延 4年(1751) |
18 |
2012.04.15 |
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貞祥寺 |
長野県佐久市大字前山1380 |
江戸後期1781頃 |
15.9 |
2012.04.15 |
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若一王寺神社 |
長野県大町市字大町2097 |
宝永 8年(1711) |
20.2 |
2016.09.27 |
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高山寺 |
長野県上水内郡小川村稲丘 |
元禄11年(1698) |
17.1 |
2016.09.27 |
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横蔵寺 |
岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原 |
寛文 3年(1663) |
17 |
2016.07.29 |
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飛騨国分寺 |
岐阜県高山市総和町1−83 |
文政 3年(1820) |
22.4 |
2011.08.29 |
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椿山荘 |
東京都文京区 |
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観音教寺(芝山仁王尊) |
千葉県山武郡芝山町芝山298 |
天保 7年(1836) |
25 |
2019.09.03 |
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西福寺 |
埼玉県川口市西立野420 |
元禄 6年(1693) |
23 |
2012.03.14 |
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成就院 |
埼玉県行田市長野7618 |
享保14年(1729) |
11.2 |
2012.03.25 |
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安楽寺(吉見観音) |
埼玉県比企郡吉見町御所374 |
明歴 2年(1656) |
24.3 |
2012.03.25 |
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薬王院 |
茨城県桜川市真壁町椎尾3178 |
宝永 元年(1704) |
25 |
2012.04.02 |
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願成寺(板橋不動) |
茨城県つくばみらい市板橋 |
安永 8年(1779) |
25.1 |
2012.04.02 |
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高勝寺 |
栃木県栃木市岩舟町静3 |
寛延 4年(1751) |
19 |
2015.03.20 |
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高蔵寺 |
福島県いわき市高倉町鶴巻50 |
安永 3年(1774) |
15.7 |
2016.04.06 |
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法用寺 |
福島県大沼郡会津美里町雀林 |
安永 9年(1780) |
20 |
2016.05.25 |
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隠津島神社 |
福島県二本松市木幡字治家49 |
延宝 2年(1674) |
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2016.05.24 |
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安久津八幡神社 |
山形県東置賜郡高畠町安久津 |
寛政 7年(1795) |
20.5 |
2016.05.25 |
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慈恩寺 |
山形県寒河江市大字慈恩寺31 |
文政13年(1830) |
26.7 |
2015.05.25 |
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日吉八幡神社 |
秋田県秋田市八橋本町1−4−1 |
宝永 4年(1707) |
20 |
2016.08.28 |
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普門寺 |
岩手県陸前高田市米崎町字地竹沢 |
文化 6年(1809) |
13 |
2012.07.09 |
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五智国分寺三重塔 新潟県上越市五智3−20−21 |
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五智国分寺 三重塔
天平年間(740年代) 聖武天皇の勅願により全国に国分寺が建立されたが、五智国分寺も越後の国の国分寺としてその起源をもつ。その当時の所在地は定かではなく、現在の五智国分寺は春日山を本拠とした上杉謙信によって再建されたもの。五智国分寺と称されるのは、本尊が五智如来であることから。因みに五智とは大日如来の五つの智慧「法界体性智」「大円鏡智」「平等性智」「妙観察智」「成所作智」を意味すると教義されています。また、五智国分寺の本尊は「大日如来」「薬師如来」「室生如来」「阿弥陀如来」「釈迦如来」の5体。
承元元年(1207)専修念仏禁止により親鸞上人が越後へ流罪となった折、国分寺の住職が境内に草庵を建てて住まわせ、跡地が竹之内(竹林)草庵として残されている。
本堂は江戸時代に2度火災に遭い、都度再建されたが昭和63年に焼失。平成9年に再建された。仁王門は天保6年(1835)の建築。
三重塔は寛政年間に火災により焼失したが、安政3年(1856)に再建に着手し、慶応元年(1865)に上棟されたが、高欄などが未完成のままとなっている。(2011年6月4日撮影) |
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光前寺三重塔 長野県駒ケ根市赤穂29番地 |
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光前寺 三重塔
光前寺は天台宗の別格本山。山号は宝積山。創建は貞観2年(860)とされる。境内は杉の林に覆われ、樹齢数百年の巨木もある。三つの庭園があり光前寺庭園として国の名勝に指定されている。
三重塔は文化5年(1808)に建立されたもの。高さ17.1m。こけら葺き。初層と2層の屋根下には彫刻が施されている。南信濃に残る唯一の三重塔。
光前寺を訪れたのは2度目。古いアルバムを探し出して三重塔をバックにしてまだ2歳になったばかりの子供を抱っこしたカミさんの写真を見つけた。あれから30年以上の月日が過ぎた。当時に比べ私の容姿も生活環境も大きく変わったが、杉の木立に囲まれて立つ三重塔は当時と同じ姿で立っている。(2016年9月3日撮影) |
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真楽寺三重塔 長野県北佐久郡御代田町塩野142 |
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真楽寺 三重塔
真楽寺の始まりは用明天皇2年(587)に用明天皇の勅願により浅間山の噴火を鎮めるために建立されたと伝えられる。山号は浅間山。真言宗智山派の寺。観音堂は寛文5年(1665)の建立。三重塔は慶長18年(1613)に焼失し、寛延4年(1751)に再建されたものが現在に残る。
真楽寺は佐久市の北側、浅間山の裾野にある。佐久市の貞祥寺からは佐久平を南側から望んだが、ここからは北側から望む。
境内は杉の大木に覆われ、観音堂と三重塔の中間には樹齢千年以上の神代杉もある。歴史のあるお寺らしく数々の伝説や言い伝えがあり、諏訪の神の竜神伝説や聖徳太子が立ち寄ったとの言い伝え。源頼朝の逆さ梅。そのどれもが本当にあったのではと思わせるほどの雰囲気を持った境内。都会ではなく、こんな寺院がある長閑な土地で暮らすのも良いものだと、そんな気分になる。(2012年4月15日撮影) |
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貞祥寺三重塔 長野県佐久市大字前山1380−1 |
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貞祥寺 三重塔
雄大な浅間山を背景に佐久の市街が一望できる丘の中腹に貞祥寺はある。大永元年(1521)前山城主であった伴野貞祥が祖父と父の供養のために慶徳寺(埼玉県)の僧・節香徳忠禅師を招いて開山したのが始まりとされる曹洞宗の寺。
江戸時代になってからも小諸藩主であった仙石氏から寄進を受けるなどして繁栄。現在も七堂伽藍を備えた広大な境内を保っている。総門は承応2年(1653)の建立。山門は寛文12年(1672)に建てられたものが残っている。
三重塔は天明年間(1781〜1789)の建立で、もとは小海町の神光寺にあったが廃仏毀釈の影響で廃寺となり明治3年に移築されたもの。境内には島崎藤村の旧宅も移築保存されている。(2012年4月15日撮影) |
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若一王子神社三重塔 長野県大町市字大町2097 |
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若一王子神社 三重塔
松本に泊まり大町へ向かう。昨夜からの雨は明け方には止んでいた。大町は立山黒部アルペンルートの長野県側の玄関口。訪れたことは何度かあるが、これまではいずれも通過しただけだ。今回は大町市の北に位置する若一王子(にゃくいちおうじ)神社を訪れた。
若一王子神社は寺伝によれば垂仁天皇の時代にイザナミノミコトを祀り、嘉祥2年(849)に安曇郡一帯を支配する仁科氏が先祖神を奉じて創建。鎌倉時代になり仁科盛康が紀伊の熊野権現に詣で、熊野大社第五殿に祀られる若一王子を勧請し、若一王子の宮と称されるようになる。現在残る本殿は鎌倉時代末期の弘治2年(1556)に仁科氏によって建立されたもので国の重要文化財に指定されている。三重塔は江戸時代の宝永8年(1711)に建立されたものが今に残る。神仏習合の姿を当時のまま残している。(2016年9月27日撮影) |
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高山寺三重塔 長野県上水内郡小川村稲丘7119 |
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高山寺 三重塔
高山寺のある小川村は京都を発ち中山道(東山道)を下って安曇野を通り、善光寺に至る大町街道沿いにある。また戸隠街道への分岐点でもあり古代より交通の要所として重要視されていた。平安時代、鳥羽上皇の時代にこの一帯は上皇の荘園として小川の荘と呼ばれていたという。古くから多くの都人の往来があったようだ。
高山寺は寺伝によれば大同3年(808)に坂上田村麻呂が観音堂を建立したことが始まりとされる。建久6年(1195)には源頼朝が寺を再興して三重塔を創建。その後寺は荒廃し三重塔も朽ち果てていたものを江戸時代の元禄11年(1698)に木食上人が再建する。当初はこけら葺きであったが、大正11年(1922)に銅板葺きに改修される。
高山寺周辺には北アルプスの山並みを展望する場所が何か所かある。若き頃に登った山もある。何十年も前の自分の姿が甦り、懐かしくもあるが恥ずかしくもある。以来、過ごした日々は無念の連続であった。今、こうして寺巡りをしていても煩悩を捨て去ることができない自分が腹立たしい。いや、腹立たしい気持ちになることそのことが、いつまでたっても未熟者でしかない証左なのでしょう。(2016年9月27日撮影) |
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横蔵寺三重塔 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原1160 |
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横蔵寺 三重塔
横蔵寺は西国三十三か所の結願寺である谷汲山華厳寺の更に奥まった所にある。寺伝によれば延暦22年(803)に最澄により創建されたとある。創建時は現在より1.5kmほど山上にあって、400年ほど前に現在地に移されたという。本尊の薬師如来坐像を始めとして数多くの仏像が国の重要文化財に指定されている。
三重塔は寿永2年(1183)に建立されたが元亀2年(1571)に織田信長の兵火により焼失。現在残る三重塔は寛文3年(1663)に再建されたもの。山門をくぐると石垣上に檜皮葺の堂々とした姿を見せてくれる。
これまでに2度ほど横蔵寺を訪ねたが、その時はいずれも車を運転してのこと。今回は大垣から養老鉄道に乗り終着駅の揖斐駅で下車。そこから揖斐川町のコミュニティバスで横蔵へ。鉄道もバスも都会のように頻繁に走っているわけでなく時間のロスはあるが、そのことが却って心の余裕にもなる。車で訪れたなら、おそらく三重塔を写真に収めてすぐにその場を離れたに違いないが、今回は次のバスが来るまでの時間をゆったりとした気分で過ごすことができる。人生の終わりに近づいた今になって、本当の旅をしている気分にさせてくれる。(2016年7月29日撮影) |
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飛騨国分寺三重塔 岐阜県高山市総和町1−83 |
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飛騨国分寺 三重塔
飛騨国分寺は天平13年(741)聖武天皇により発せられた全国に国分寺建立の命により天平勝宝9年(757)頃に建立されたとされる。開基は行基で、本尊は国の重要文化財に指定されている薬師如来坐像。本堂は室町時代中期に再建されたものが現存し、国の重要文化財に指定されている。三重塔は寛政3年(1791)暴風により倒壊し、文政3年(1820)に再建されたものが現存する。なお、国分寺創建当時は七重の塔が建立されていたとされ、その礎石が残っている。
飛騨国分寺を訪れたのは久しぶりのこと。前回は10年以上前のことだと思う。今回訪れた目的は三重塔を写真に収めることであったが、到着したのは夕闇が迫る午後6時半ごろ。私のポケットサイズのデジカメではたして上手く写真に収めることができるか心配したが、まあまあ、それなりに写ってくれた。
人影のない寺院にしばし佇む。それだけで心が落ち着く。しかし、辺りが闇に包まれるに従い重要文化財の建物がある境内が夜間も自由に解放されていることに、警備は大丈夫なのかと心配してしまう。これまで何の事件も起こらなかったことは、日本の民度、文化的水準が高いことの証明でもあるのだろう。だが、高山の町は観光客が多数訪れる。雑多な人間が入り込むだけにやはり心配だ。(2011年8月29日撮影) |
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観音経寺(芝山仁王尊)三重塔 千葉県山武郡芝山町芝山298 |
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観音教寺(芝山仁王尊)三重塔
芝山仁王尊の名で親しまれている観音教寺は天応元年(781)の創建と伝えられる天台宗の寺院。この寺の仁王門は、仁王尊の前が畳敷きの座敷になっているのが特徴。また江戸時代には火事除け、泥棒除けに御利益があるとして江戸の町火消の人気を得たという。
三重塔は天保7年(1836)建立されたものが今に残る。各層の木組みの先の部分全てに竜の彫り物が飾られている。これだけ多く飾られているとちょっと異様な感じがしないでもない。
10年ほど前に、一度このお寺を訪問したことがある。その時は生憎と三重塔は修理中であったのか工事用のシートで覆われていた。お寺の真上を、成田空港に着陸する旅客機の巨大な姿を眺めたのが印象に残っている。飛行機の姿を眺めるのは嫌いではない。残念ながら今回は今にも雨が降り出しそうな曇り空。航空機のエンジン音は聞こえるのだが姿は見えない。そんな時、ほんの少しだけ厚い雲が途切れたのか、突然に旅客機の巨大な姿が現れる。ちょっと幻想的な光景だった。(2019年9月3日撮影) |
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西福寺三重塔 埼玉県川口市西立野420 |
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西福寺 三重塔
西福寺の周辺まで来て、道に迷い20分ほどあちこち走りまわる。やっと見つけた西福寺の小さな案内看板に従ってわき道に入るが、この道は所々で車両がすれ違いできないほど狭い道。幸い対向車に遭うこともなく駐車場にたどり着く。狭い導入路に似合わず駐車場は数十台のスペースがあるほど広い。訪れたのは平日の午後4時。私以外に駐車の車はいない。西福寺は小高い丘の上にある。おそらく少し前までは廻りは山林や農地で囲まれていたのだろうが、今は新しく建てられた住宅が駐車場を取り囲むように立っている。何れこの駐車場も宅地化されるのだろうか。3月中旬のこの季節、気温は10度前後。それでも陽射しがあり無風状態なので寒さを感じない。小高い丘の上なので、遠くに川口の町並みが遠望できる。
西福寺は弘仁年間(810〜824)に弘法大師(空海)によって創建されたという古刹。観音堂には西国、坂東、秩父の100観音が祀られていて、この寺を参拝すれば100観音霊場を参詣したと同じ御利益があるという便利な寺である。三重塔は元禄6年(1693)に徳川三代将軍家光の長女千代姫が奉建したとされる。埼玉県の有形文化財に指定されている。 (2012年3月14日撮影) |
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成就院三重塔 埼玉県行田市長野7618 |
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成就院 三重塔
成就院は天正年間に創建されたとされる真言宗智山派の寺。山号は五智山。境内敷地は広くなく、狭い道路に面して門がある。地区の住民によって守られている落ち着いたたたずまいの小規模なお寺。
本堂に向って左手に立つ三重塔は高さ10mほどの小さなもの。享保14年(1729)に建立された。お寺に置いてあった案内文によると「一地方寺院が地方大工の手で建立した特殊な塔で、1辺もわずか2.24m。高さ10mの可愛い塔である。この地方が観光地として脚光を浴びるようになってこの塔も注目されるようになり、昭和56〜57年に解体復元工事が施工されて面目を一新。手慣れた宮大工なら考えもつかない手法を用いて、それなりにうまく消化して、一つのまとまった形態に仕上げている。今回の修復により小さいながらも華麗な姿にもどり、近年訪れる人も多くなった(中西亨著・塔の旅より)」とある。享保時代の観音信仰の盛んな時期に建立され、塔内には忍城主・安部豊後守忠秋が寄進した葉衣(ようえ)観音菩薩が本尊として安置されている。(2012年3月25日撮影) |
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安楽寺(吉見観音)三重塔 埼玉県比企郡吉見町御所374 |
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安楽寺(吉見観音)三重塔
吉見観音の名で親しまれている坂東33ヵ所の第11番目札所の正式寺名は岩殿山安楽寺。約1200年前の奈良時代に聖武天皇の命を受けた行基が観音菩薩像を彫り、岩窟に納めたのが寺の縁起とされる。 奥州討伐の際、この地に立ち寄った坂上田村麻呂が安楽寺を領内の総鎮守として堂宇を建立。鎌倉時代には源範頼がこの地を支配して、安楽寺に寺領を寄進。この時に本堂、三重塔を建立した。しかしその時の建物は北条氏との戦で焼失。
現在の三重塔は江戸時代に入り、寛永年間(1624〜1643)に建設された(明暦2年・1656の説もある)。三間四方で高さは24.3m。基壇は設けられていない。当初は柿葺きであったが、現在は銅板に葺きかえられている。県の重要文化財に指定されている。本堂も江戸時代の寛文元年(1661)に再建された。 (2012年3月25日撮影) |
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薬王院三重塔 茨城県桜川市真壁町椎尾3178 |
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薬王院 三重塔
椎尾山薬王院は標高約200mの椎尾山にある。延歴元年(782)に創建されたとされる古刹。筑波山山系の西側にあり、ここから筑波山に至るハイキングコースは少し距離はあるがよく整備されていてハイカーに人気がある。今年は冬が長かったせいで桜はまだだが梅の花が見ごろ。気温も15度前後で快晴の一日。とはいえ、訪れたのは徒歩ではなく車。県道41号線を益子方面から南下、案内標識に従って椎尾山へ。少し走って薬王院参道入り口の案内があり山道へ。車がやっとすれ違うことができる程度の狭い道だが薬王院前には十台ほどが駐車できる駐車場がある。平日の午前だったがほぼ満車状態。ハイカーか山菜取りに訪れた人もいるようだ。
三重塔は宝永元年(1701)に建立されたもので、大工棟梁桜井瀬左衛門の手による。県の重要文化財として指定されている。桜井瀬左衛門は成田山新勝寺の三重塔を薬王院の三重塔が完成した7年後に完成させている。成田山新勝寺の三重塔とは垂木の構造が違うが高さは同じく25m。(2012年4月2日撮影) |
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願成寺(板橋不動)三重塔 茨城県つくばみらい市板橋2370−1 |
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願成寺 三重塔
板橋不動院として親しまれている清安山不動院願成寺。もともとこの地は板橋村という村落であり、この地に建てられた寺であることから板橋のお不動さんという愛称で呼ばれる様になった。寺伝によれば大同3年(808)諸国を行脚中の弘法大師がこの地に来て不動明王を刻んで堂を建てたのが寺の起源とされる。不動明王は寺の本尊として祀られ国の重要文化財に指定されている。また関東三大不動尊の一つにもなっている。因みに他の二つは高幡不動尊と成田不動尊。
堂宇は度々の戦火で焼失。天授6年(1360)に七堂伽藍が整備されたが焼失し、現在の建物は江戸時代に再建されたものという。
三重塔は安永元年(1772)に建立されたもので三間四面、銅瓦棒葺。高さ25.1mの堂々とした塔。本堂は文禄年間(1592〜1596)に建てられたもの。何れも江戸文化の匂いのする立派な建物で当時のお不動さんへの信仰の篤さが感じられる。訪問時に、やはり江戸時代に建てられた楼門が修理中で拝見できなかったことが残念。(2012年4月2日撮影) |
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高勝寺三重塔 栃木県栃木市岩舟町静3 |
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高勝寺 三重塔
天気予報は曇り時々晴れだったがJR両毛線岩舟駅に着いた時は霧雨模様だった。ここから標高約170mの岩舟山の山頂に建つ高勝寺三重塔を目指す。麓から山頂まで何段あるかを数えるのを忘れるほどの長い石段がつづく。
高勝寺(こうしょうじ)は宝亀8年(775)の開基と伝えられる。寺院の建つ岩舟山は古来より死者の霊、霊魂の集まる場所だという。また、高勝寺は「日本三大地蔵尊」「関東の高野山」とも呼ばれている。
江戸時代に三代将軍家光の側室宝樹院が帰依し、宝樹院は四代将軍家綱を生む。家綱は岩舟地蔵の申し子と言われたという。
三重塔は寛延4年(1751)に建立される。銅板葺、高さ19m。塔に塗られたベンガラが霧雨に包まれて優しい色彩に染まり、暫しの安息を与えてくれる。(2015年3月20日撮影) |
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高蔵寺三重塔 福島県いわき市高倉町鶴巻50 |
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高蔵寺 三重塔
海雲山慈眼院高蔵寺は真言宗智山派の寺。寺伝によれば大同2年(807)の創建という。
高蔵寺へは常磐線植田駅から徒歩で向かう。約40分の道のり。登山道を長時間歩くことは何とも思わないが、車が通行できる道を40分も歩くのは少々抵抗感がある。いや、昔はそうだったが、時間に追われない生活をしている今はそれほどの苦痛でもない。むしろ田園地帯をのんびりとした気分で歩くのは爽快である。訪れた日の気温は16、7度。雨の心配はない。野花や都会地では見られなくなった土筆もここでは群生している。散策にはちょうど良い季節と場所だ。
三重塔は安永3年(1774)に再建されたもの。もともとは柿板葺きであったが、現在は銅板葺きに改修されている。2、3層に高欄がないが、これが却って素朴な味わいを与えている。高さは16m弱と小ぶり。それでも杉の大木に囲まれて幻想的な姿を見せている。(2016年4月6日撮影) |
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法用寺三重塔 福島県大沼郡会津美里町雀林字三番山下3554 |
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法用寺 三重塔
レンタカーのナビの性能が良くないのか目的地に「法用寺」と入れても反応がない。地図画面だけを頼りに磐越自動車道の新鶴PAに付属するスマートICを出る。案ずることはなかった。一般道に出てすぐに案内板がある。案内板に従いしばらく走ると「法用寺虎の尾桜」の看板。どうやら法用寺を訪れる人の最も多い目的は桜見物にあるようだ。
法用寺は寺伝によれば養老4年(720)の創建とされる。その後火災に遭い荒廃し、大同年間(806〜810)に最澄、空海とも親交(論争した?)があったとされ都を離れて奥州を布教した「徳一」が再興したとされる。
参道を進むと直ぐに倒壊が心配されるような山門に出会う。ここには国の重要文化財に指定された仁王像(金剛力士像)が左右に置かれていたのだが、今は保全のため本堂内に安置されているようだ。本堂は小ぶりだが山門と違って倒壊の心配は無用に見える。
三重塔は安永9年(1780)建立のものが現在に残る。国指定ではないが県の重要文化財となっている。福島県内に残る三重塔は三基あり、法用寺の他は隠津島神社といわき市の高蔵寺。それぞれ特徴のある塔だが、私の見た目では法用寺の塔が美観的には優れているように思えた。(2016年5月25日撮影) |
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隠津島神社三重塔 福島県二本松市木幡字治家49 |
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隠津島神社 三重塔
隠津島(おきつしま)神社は山号を木幡山と称し、標高666mの木幡山8合目あたりに社殿が建つ。寺伝によれば神護景雲3年(769)に創建され、大同年間(9世紀初め)に平城天皇の勅願により弁財天を祀る神仏習合の寺院となる。三重塔は室町時代の文明4年(1472)に建立されたが、その後荒廃し初層を残すのみとなっていたものを延宝2年(1674)に二本松藩主丹羽光重によって修復される。しかし明治35年に暴風雨により初層を残して倒壊し、再度修復されたものが現在に残る。当初はこけら葺きであったが現在は銅板葺きに変えられた。
隠津島神社へは東北自動車道を二本松ICで下り県道62号線を経由して国道349号線に出る。そこから市境にある口太山トンネルの手前にある旧道に入り、さらに小型車がギリギリすれ違うことが可能な程度の道幅の林道に入る。つづら折りの林道を2k半ほど進むと神社の駐車場に着く。そこから約10分、急こう配の参道を登れば三重塔が見え、さらに梯子状の石段を登れば寛政12年(1800)に竣工された本殿に着く。
木幡山は樹齢100〜300年の杉や松が生い茂り、奥の細道遊歩道が整備されており神社から木幡山の山頂へも行ける。ただし私は時間の都合で割愛した。(2016年5月24日撮影) |
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安久津八幡神社三重塔 山形県東置賜郡高畠町安久津2011 |
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安久津八幡神社 三重塔
安久津八幡社の鎮座する一帯は「うきたむ風土記の丘」として郷土資料館などが建つ歴史公園として整備されている。「うきたむ」とは日本書紀の記述で「置賜(郡)」の古地名とのこと。このあたりに縄文時代の遺跡があったようだ。
安久津八幡神社は貞観2年(860)に慈覚大師の発願で阿弥陀堂が建立されたのが始まりとされる。その後に八幡信仰も加わり神仏習合の寺院としてこの地の主要寺院として栄える。社殿は特異な形をした茅葺屋根で米沢藩上杉氏9代の重定によって宝暦5年(1755)に再建されたものが現在に残る。三重塔は寛政2年に強風により倒壊したが、寛政9年(1797)に再建されたものが現在に残る。当初はこけら葺きであったが現在は銅板に葺き換えられている。
訪れたのはちょうどアヤメの咲く季節。白や赤のつつじも咲き、また辺りを散策すれば名前の知らない可憐な野花も見られる。三重塔見学以外にも十分に楽しめた。(2016年5月25日撮影) |
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慈恩寺三重塔 山形県寒河江市大字慈恩寺31 |
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慈恩寺 三重塔
慈恩寺(じおんじ)は寺伝によれば天平18年(746)勅命によりインドの高僧婆羅門僧正が開基したのが始まりとされる。平安末期から戦国時代を通してこの地はたびたび戦乱の地となり、寺の庇護者も目まぐるしく変わる。また宗派も山岳信仰、法相宗、真言宗、天台宗等の影響を受け、現在は独立した慈恩宗の総本山であり、弥勒菩薩を本尊として地蔵菩薩、釈迦如来、不動明王、降三世明王を脇侍に配する五尊形式。
三重塔は慶長13年(1608)時の領主最上義光によって建立されたが、文政6年(1823)に焼失。現在の塔は文政13年(1830)に再建されたもの。
慈恩寺のある寒河江(さがえ)市は10年ほど前にたびたび訪れた地。ここには工場団地が造成されており、その中の中規模の工場を仕事で訪れたことがある。仕事ではあまりいい思い出はないが、山形からローカル線に乗ってちょっとした旅気分を味わったことを懐かしく思い出す。その時は慈恩寺に立ち寄る余裕はなかったが、今は仕事を離れて田園の風景の中にある落ち着いた佇まいの寺院の空気に浸ることができた。(2015年5月25日撮影) |
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日吉八幡神社三重塔 秋田県秋田市八橋本町1丁目4−1 |
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日吉八幡神社 三重塔
日吉八幡神社は平安時代に近江の日枝山王と京都の石清水八幡宮を勧請し日吉山延命寺と称したのが始まりとされる。当初は現在の秋田市外旭川の地にあったがその後数度の移転を伴い、寛文2年(1662)に現在地に移る。北側からは仏式、東側からは神式の建物配置に見える神仏習合様式の特徴を今も残している。
三重塔は宝永4年(1707)に建立され現在に残る。銅板葺き(建立当時は不明)で高さは20m。
ポケモンGOの影響はこの神社にも及んでいる。スマホを熱心に覗き込む人の姿が三重塔の前から離れない。20分ほど待って、人影が途絶えた僅かな隙に撮影する。(2016年8月26日撮影) |
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普門寺三重塔 岩手県陸前高田市米崎町字地竹沢181 |
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普門寺 三重塔
10年ほど前、松島から宮古までの三陸海岸をドライブしたことがある。ちょうど東日本大震災で壊滅的被害を受けた地域だ。その場所を今度は釜石から松島まで走った。震災から1年4カ月が過ぎていた。10年前は風光明美な海岸線を走る快適なドライブだったが今回は違う。如何表現しても憚る様な悲惨な光景が随所にあった。陸前高田市は特に被害が甚大であった地域だ。普門寺は陸前高田市の市街地から少し離れた高台にある。ほんの数キロ先は未曽有の震災被害を被った場所だがここは何事もなかったような静かな佇まいを見せている。もっとも震災直後の様子を知っているのではない。寺の境内も難を逃れた被災者で混乱していたのかもしれない。
普門寺の山号は海岸山。仁冶2年(1241)に臨済宗の寺院として開基された。その後衰退したが、明応3年(1494)に曹洞宗に改めて再興。もとは海岸に近い場所にあったが、この時に現在地に移ったようだ。三重塔は今回の震災では被害を受けなかった。塔の高さは13メートルとやや低いものの、文化6年(1806)に建立された堂々たる三重塔。地元大工による建築で、二層目は全面に彫刻が施された三手先の技法。三層目は垂木を放射線状に配した三軒扇垂木の技法で建てられている。(2012年7月9日撮影) |
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