焼かずとも 草はもえなん 春日野(かすがの)を ただ春の日に まかせたらなん
壬生忠見 新古今和歌集 巻第一
歌の作者・壬生忠見(作者は源重之とする説もある)は、わざわざ野焼きをしなくとも春日野の草は生え出るに違いないから春の日(火)に任せておいてほしいと言っている。
野焼きは害虫を追い立て、草の芽が良く育つようにと行うもの。今年の若草山の山焼きは既に終わったが、若草山の山焼きは古代から続く伝統行事であり、春を迎える古都の風物詩。それを自然に任せろと、平安時代の公家で三十六歌仙の一人でもある歌人が言葉にするのは、ちょっと大胆な発想ではないかと気になる。
3月21日は二十四節気の「春分(しゅんぶん)」。昼と夜の長さが同じになる日。この季節、冬の寒さに耐えていた草木の芽が伸びて野や山が緑に染まってゆく。自然は人が手を加えなくても忘れることなく四季を繰り返す。人はその自然を都合よく利用する。人は生きるためには自然を利用することが不可欠だ。それが前提で人は生きていられる。ただ行き過ぎた自然への関与は自らを滅ぼすことになる。野焼きも程度の問題であろう。
平安時代は現在と違って身近に自然を感じられる環境であったと思う。それでも野焼きに否定的な言葉を使うのは他に意図することがったのだろうか。単に自然を愛でるといった感傷的な言葉の遊びで歌にしただけなのだろうか。
地球上に生きる、人を含めた全て動植物は壮大な連鎖の中で共生して生きている。だがその連鎖は絶対的なものではないと思う。連鎖の仕組みが時によって変化したり崩れたりするのも自然の力だ。人は変化に対応して自然に向き合い、そのうえで自然を利用し豊かさを求めるのは悪ではない。行き過ぎた自然保護は人の進化を阻害する。感傷的な言葉で自然を語るだけの世相に振り回されることなく上手く自然と共生していきたい。 |