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天竺老人 歳時記

    


歳時記 2023
  春分 啓蟄 雨水 
 節分・立春 大寒 七草粥 令和5年の幕開け


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春分  

  焼かずとも 草はもえなん 春日野(かすがの)を ただ春の日に まかせたらなん
                                  壬生忠見 新古今和歌集 巻第一
 歌の作者・壬生忠見(作者は源重之とする説もある)は、わざわざ野焼きをしなくとも春日野の草は生え出るに違いないから春の日(火)に任せておいてほしいと言っている。
 野焼きは害虫を追い立て、草の芽が良く育つようにと行うもの。今年の若草山の山焼きは既に終わったが、若草山の山焼きは古代から続く伝統行事であり、春を迎える古都の風物詩。それを自然に任せろと、平安時代の公家で三十六歌仙の一人でもある歌人が言葉にするのは、ちょっと大胆な発想ではないかと気になる。
 3月21日は二十四節気の「春分(しゅんぶん)」。昼と夜の長さが同じになる日。この季節、冬の寒さに耐えていた草木の芽が伸びて野や山が緑に染まってゆく。自然は人が手を加えなくても忘れることなく四季を繰り返す。人はその自然を都合よく利用する。人は生きるためには自然を利用することが不可欠だ。それが前提で人は生きていられる。ただ行き過ぎた自然への関与は自らを滅ぼすことになる。野焼きも程度の問題であろう。
 平安時代は現在と違って身近に自然を感じられる環境であったと思う。それでも野焼きに否定的な言葉を使うのは他に意図することがったのだろうか。単に自然を愛でるといった感傷的な言葉の遊びで歌にしただけなのだろうか。
 地球上に生きる、人を含めた全て動植物は壮大な連鎖の中で共生して生きている。だがその連鎖は絶対的なものではないと思う。連鎖の仕組みが時によって変化したり崩れたりするのも自然の力だ。人は変化に対応して自然に向き合い、そのうえで自然を利用し豊かさを求めるのは悪ではない。行き過ぎた自然保護は人の進化を阻害する。感傷的な言葉で自然を語るだけの世相に振り回されることなく上手く自然と共生していきたい。

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啓蟄  

 はるかすみ立を見すてて行く雁(かり)は
           花なき里に住みやならへる    
                        伊勢 古今和歌集巻1春歌

 3月6日は二十四節気のうち「啓蟄(けいちつ)」。春の気配に誘われて土の中で眠っていた虫たちが動き出すころ。
 今日の空模様は節気の季節に相応しい演出をしてくれたようだ。朝方まで降っていた雨は止んで薄雲の中から柔らかい陽ざしが地上の様子を覗いている。雨に湿った黒い土の塊が陽ざしを受けて、今にも小さな虫たちが這い出してきそうな気がする。
 虫たちの動きに先駆けて、我々人の動きが活発になってきた。もはや新型コロナウイルスを話題にするメディアも少なくなった。普段の生活に戻る日は直ぐそこまで来ている。もっともそれは格別なことでもない。あたりまえの日常がごく自然に戻ってくるだけだ。とはいえ悩ましいことは、そのあたり前の日常は人によって千差万別だ。それが元でつまらない争いをするのでなく、せめて自分の立っている場所とは違った世界があることを互いに理解して自分の考えを強要しないようにしたい。 

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 雨水  

 世の中の動きが早いのか、遅いのか。それともただ立ち止まってもがいているだけなのだろうか。コロナウィルス騒動の3年間、狭い囲いの中で見ていた世界の景色が、突然に、まるで違ったもののように見えてきた。眠りから覚めて、気が付けば世界が途方もない速さで遠ざかって行ってしまったような気分だ。このごろの世の中は、これまで見たり聞いたり経験したことがないような事が一斉に弾き出したように感じて不安になる。そうであっても私のまわりを見渡すと狭い囲いを抜け出せないままだ。いまだに枝葉末節のことばかり気にして、マスクを着用すべきか否かで争っているのは滑稽でしかない。
 2月19日は二十四節気の「雨水(うすい)」。草木が芽生えるころ。野山を歩けば木の芽が膨らみ、魁て花を咲かせた慌て者の姿も見られる。春の訪れを実感する頃だが、華やいだ気分にはなれそうにない。と、粋がって叫んでみたものの何か虚しい。
  銭(ぜに)なくて たもとふたつも 長閑なり
                清水一瓢(しみず いっぴょう) 文化2年(1805)ころ
 なまじいろんな物がありすぎると悩みも多くなる。かえって何も持たない方が長閑な気分でいられると、俳句の作者は言っている。お金がないのは寂しいが、やせ我慢でなく、普段着の生活ができる程度あればいい。世の中の景色が急激に変わったと思うのも、いろんなしがらみに縛られた自分の主観でしかない。生半可な知識で正義を振りかざしても、的外れなことも多い。硬直した脳みそが詰まった頭の中を空にして、せっかく冬が去って暖かな春の陽気が近づいてきたのだから、長閑な心持で楽しく過ごすことにしよう。浮世を離れてのんびりと過ごすことができるのは高齢者の特権だ。(2023.2.19)

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節分・立春  

 四半期ごとに繰り返す季節の変わり目。2月3日は節分。4日は立春。
  
  春の日の 威光をみする 雪間哉
     
松江重頼 句集・狗猧(えのこ)集 寛永10年・1633
 節分の昨日は曇り空で冷たい風が吹いていた。今日は朝から雪間ではないが雲間から太陽が顔を出して暖かい光を放っている。風もなく穏やかな空気が立春に相応しい雰囲気を醸し出している。四季のない国に暮らしたことがないので季節の移ろいは当たり前のことだとしか思わないが、それでも春の到来を予感させる陽光を浴びると素直に嬉しくなる。春になれば何か面白い事でも起きるのではと、意味もなく期待したりもする。
とはいえ昼間の陽気と違って、夜になって光の差し込まない部屋に籠っていると何とも鬱陶しい気分に襲われる。昨日の夜は節分の豆まきをして鬼を追い払った筈なのに、まだしつこく数多の鬼がまとわり憑いているようだ。追い出しても追い出しても新しい鬼が入り込んで来る。

   春の夢 気の違はぬが うらめしい
                   小西来山(こにしらいざん) 句集・続今宮草(天明3年・1783)
 俳句の作者、小西来山は大阪の人。春の夢は美しく幻想的なものとの思いがあるが、少し前に子供を亡くし、春が始まろうとするこの日に子供の夢を見た。いっそのこと気が違ってしまえば夢を見ることもなく苦しむことはないのにと嘆いている。
 さしたる望みもなく何らかの希望を持って生きているわけではない私は、その分気楽な余生を送っているが、このごろの世の中を賑わしているニュースが脳内にストレスを蓄積させているようで、とても爽快な気分で過ごしているとは言い難い。私が目にしたり聞いたりするニュースのほとんどは気分を害するものばかり。気が違っては困るが、目をつむり耳を塞いで生きてゆくことが出来れば幸せに過ごせるのだろうと、そんな思いが頭の中をよぎる。しかし現実は世の中に背を向けて生活することなど出来るものではなく、望んでもいないのに雑多のニュースが勝手に入り込んでくる。ストレスから逃れるには鈍感になることか、それもできそうにない。せめて今日は美しく幻想的な春の夢が見られるようにと、少し冷静になって頭の中を整理してから眠りにつくようにしよう。意に反して悪夢にうなされることにならなければ良いが。(2023.2.4) 

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大寒  

  寒月や 枯木の中の 竹三竿(さんかん)
                 与謝蕪村 蕪村句集 天明4年・1784ころ

 昨日の早朝、寒空の中で月齢26日の下弦の月が凍った光を放っていた。二十四節気の「大寒」の今日(1月20日)の明け方は生憎に曇り空で月の姿は見えなかったが、昨日と同じように気温4度程の寒い朝だった。
 二日ほど前に日本列島を覆った寒気は、皮肉なことに大寒の今日は少し緩んだようで朝の気温は低かったものの日中の気温は13度まで上昇した。それでもあすからはまた例年に比べても寒さが厳しい日が続くとTVのニュースが報じている。
 このところちょっと体調不良で外出を控えていた。まさか、コロナウィルスかインフルエンザウィルスに感染したのではと少しは心配したが、熱もなく食欲もまあまああったので病院へ行くこともなく自宅で静かに療養していたが、今日は朝から体調良好。昼前に快晴となった空の様子に促されて、例年参拝に行く神社へ遅い初詣に出掛けた。神仏を信じているわけではないが、神社で新年の祈祷もしてもらった。一年に一度くらいはこんな行事を経験するのも悪くはない。
 平日なので神社の参拝者も少ないだろうと思っていたが、想像していた以上の人出があった。それも私のような老人ばかりだろうとの思いに反して若い人たちが参拝者の大半を占めていた。目にした光景だけを捉えてみれば、老人天国日本はどこかへ消え去ったような錯覚さえする。
 三年続いたコロナウィルスによる行動規制が大きく緩和され、この春には完全解除になる機運。まだ感染状況は続いていると一部からは規制解除に否定的な声も上がっているが、どこかで見切りをつけないと永遠に続いていくような気がする。私のような老人はともかく、若い人たちはこの先何年も自分たちの人生を無駄にしたくないはず。この人混みの中にいる若い人たちはこれまでに失った時間を取り戻そうと、いち早く普通の生活に戻ることを待ち望んでいたのだろう。解除で混乱が生じたとしても、行動規制解除反対派も賛成派も互いにヒステリックにならずに普通の生活を取り戻す動きを受け入れていくしかないのでは。
 1月22日は旧暦の1月1日。旧正月。この日は新月(朔月)でもある。新月となった月は規則通り満月となり、再び新月に戻る。それを繰り返す自然は忘れることなく規則通りに時を刻んでいる。自然の中で人の動きも何事もなかった如くに動き始めるだろう。(2023.1.20)

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七草粥  
  新型コロナウィルスの感染者が増加しているようだ。それでも世間がさほどに大騒ぎしていないのはウィルスと共存する意識が高まった所為だろうか。喜ばしいことだと思う反面、初詣の人混みの報道を見て、まだ私は初詣をしていない。賑やかな場所が嫌いなわけではないが、ベルトコンベアーで運ばれるようにして参拝するのは躊躇う。もう少し落ち着いてから行こうと思う。

 春雨や 火もおもしろき なべの尻
               小林一茶 文化元年(1804)正月 文化句集

 一茶が正月に詠んだ句。鍋で何を煮炊きしていたのだろうか。文化元年はまだ終の棲家と定めた故郷の信州・柏原に移住していない時期だと思うので江戸で独り暮らしの粗末な借家の土間で煮炊きをしていたのだろう。正月と言えども貧しさの中では鍋の中身は菜雑炊か。故郷の囲炉の炎を思いながら鍋の底をはう炎を見つめていたのだろうか。この句を思い描いて七草粥を作ったのではないが、こちらも狭い台所でガスコンロに土鍋を乗せ、近所のスーパーで買ったパック入りの七草を入れた粥を作った。薪や木炭の炎と違ってガスコンロの炎は安定していて面白味がない。
 去年の末から北米では異常な寒波に襲われたが、欧州では今年は暖冬の予想だ。幸いにロシヤのウクライナ侵略に端を発した石油やガス不足は一段落しているようだが、長期的に見れば解決すべき問題は多い。土鍋の底のガスの炎を見ながら、しばらくは世界中で混乱が続くのではと、そんな思いが悩ましい。自由、人権、民主を人類の普遍的な価値と信じるなら、たとえ困難が続いたとしても、いまはそれに耐えて戦う時だと思う。
(2023.1.8)

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令和5年の幕開け  

 令和5年の幕開け。今年はどんな年になるのだろううか。生まれてから76回目の正月を迎えたが、私には不吉な予感しか浮かんでこない。それでもその不吉な予感はなぜか他人事のようにしか感じられない。
 去年の末に有名人がTVのトーク番組で「来年はどんな年になるか」と問われて「新しい戦前の年」と答えたとのネットのニュースを見た。その答えが的中しないことを願ってはいるが、半ばそれを期待する気持ちも浮かんできたりもする。
 人間社会の多様性を求める声に反対するつもりはなく、そうであるべきとの思いはあるが、人種・思想・経済・政治を含むすべての人間社会の融和が目的であるはずの多様性を求める声が却って分断を促しているようにも感じる。その声は増々無秩序に拡散されているように感じるし、その動きはそろそろ飽和点に達するのではと思う。行きつく先は万物の法則通り爆発しかない。最後は正義が勝つと信じるなら、それも止むなしか・・と、もっともこんな極論を描いているのは少数の人間だけだろう。人間の知恵は必ず混乱を収めるべき確かな動きを見出すに違いない。智恵者は勿論私でなく他にいる。


  月花や 四十九年の むだ歩き
             小林一茶 句集七番日記(文化7年・1810~文政1年・1818) 

 一茶が49歳の時に詠んだ句。50歳は「五十にして天命を知る」とする「知命」であるから、その前年は過去を清算する転機の歳ともされる。
 一途に俳諧の世界に没頭して、月や花やと過ごした49年を反省しているのだろうか。一茶の思いが何処にあるのか私には測り得ないが「むだ歩き」は決して無駄ではなかったと叫んでいるようにも感じる。
 とっくの昔に49歳を通り越してしまった私は「知命」もなく、従って過去を清算することもなく、これまでむだ歩きを続けてきた。今もまたこれを反省することもなく、「むだ歩き」は決して無駄ではなかったと叫びつつ、今年も「むだ歩き」を続けていく。(2023.1.2)

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