常陸 |
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藩名・石高 |
家紋 |
城郭の歴史 |
最後の藩主 |
220 |
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松岡藩
2万5千石
松岡城
茨城・高萩市 |
枡に月 |
慶長7年(1602)戸沢政盛が出羽角館より移り、中世の山城であった龍子山城の麓に曲輪を築いて松岡城と称した。元和8年(1622)以降水戸藩に属し藩の付家老中山信正が城主となる。一時廃城となったが、享和3年(1803)再建。陣屋程度の規模。明治元年(1868)に付家老は正式な大名格となる。 |
中山信徴
21歳 諸侯
水戸藩付家老職が代々城主を務めていたが、他の御三家の付家老と同様に明治元年に独立した。水戸藩の混乱に翻弄される。 |
221 |
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水戸藩
35万石
水戸城
茨城・水戸市 |
水戸三葉葵
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鎌倉時代初期に馬場資幹が馬場城と称した館を築いたのが水戸城の始まりとされる。戦国時代に江戸氏が水戸城と改め、天正18年(1590)佐竹氏が水戸城を奮取し大改築する。慶長14年(1609)に徳川家康の11男頼房が入封し、以後徳川御三家として続く。寛永2年(1625)城を修復。2の丸に天守代用の3階櫓を建てる。 |
徳川慶篤
35歳 御三家
尊王攘夷派の中心的人物であった斉昭の死後に藩主となるも、藩内の佐幕派、勤王派の対立を抑えられず「よかろう様」と揶揄される。 |
222 |
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麻生藩
1万石
麻生陣屋
茨城・行方市 |
左三つ藤 |
慶長9年(1604)新庄直頼が3万石で摂津高槻より入封。霞ケ浦東岸の突き出た岬の先端に陣屋を築いた。延宝4年(1676)後次がなく一旦除封されるが、先代の養子が1万石で後を継いだ。現在陣屋の跡は小学校の敷地となっている。 |
新庄直敬
49歳 外様
新政府に恭順し、旧幕府軍の取り締まりを命じられるが、小藩であり実績を上げられなかった。 |
223 |
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笠間藩
8万石
笠間城
茨城・笠間市 |
丸に牧野柏 |
承久元年(1219)宇都宮氏の一族塩谷時頼が佐白山に築城。その後笠間氏が城主となるが、秀吉の小田原攻めに北条方につき滅亡。笠間城は佐白山の地形を生かした山城で中世山城の遺構を活用した近世城郭として貴重な存在。現在、石垣の一部、土塁、空堀が残る。かつての2重櫓が城下の寺に移築されている。 |
牧野貞直
37歳 譜代
官軍に恭順して旧幕府軍と戦うが、装備は鎧かぶとに火縄銃で、敗北する。 |
224 |
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宍戸藩
1万石
宍戸陣屋
茨城・笠間市
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松平大炊葵 |
天和2年(1682)水戸光圀の弟松平頼雄が1万石を分与されて立藩。天保15年(1844)に中世の宍戸城跡地に陣屋を築く。
現在、陣屋跡地は農地や宅地となっている。長屋門形式の表門が笠間市街に移築されて現存する。 |
松平頼徳
36歳 家門
幕府の命を受け天狗党征伐に向かったが、逆に天狗党に寝返り幕府軍と戦う。結局投降して、切腹する。 |
225 |
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府中藩
2万石
府中陣屋
茨城・石岡市
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松平大炊葵 |
元禄13年(1700)水戸藩徳川頼房の5男松平頼隆が2万石を分封されて立藩。旧府中城の三の丸跡地に陣屋を築く。ただし、頼隆は定府で江戸務めであったため御殿はない。陣屋跡は市民会館、小学校の敷地となっている。土塁、空堀の一部が残り、陣屋門が小学校わきに移築されている。 |
松平頼縄
62歳 家門
水戸藩の支藩という立場で官軍に恭順。会津に出兵し戦う。 |
226 |
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志波藩
1万石
志波陣屋
茨城・かすみがうら市 |
笹竜胆 |
慶長6年(1601)本堂茂親が出羽仙北郡本堂から入封。中世の志波城跡に陣屋を築く。最初は8千5百石の旗本であったが、明治元年(1868)に1万石に加増されて大名格となる。
陣屋跡地は小学校の敷地となり、土塁と、空堀の一部が残る。 |
本堂親久
38歳 諸侯
明治元年に創設した藩で、本堂親久が最初で最後の藩主。 |
227 |
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土浦藩
9万5千石
土浦城
(亀城)
茨城・土浦市
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立三ツ石 |
永享年間(1429〜41)にこの地を支配した小田氏の家臣、今泉三郎が築城したのが最初とされる。以後小田氏の家臣が居城したが、天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めとともに滅亡する。貞享4年土や政直が駿河田中より入封し明治まで続く。土浦城は霞ケ浦の水を引いて5重の堀に囲まれた平城。水に浮かんだ亀に似ていることから亀城の別称がある。 |
土屋寅直
47歳 譜代
寅直は徳川斉昭の17男で養子。水戸藩とは違い、早くから官軍に恭順し、東北戦線にも出兵した。 |
228 |
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谷田部藩
1万6千石
谷田部陣屋
茨城・つくば市 |
陰の九曜 |
元和2年(1616)細川忠興の弟細川興元が東谷田川と西谷田川に挟まれた台地に陣屋を築く。現在陣屋跡は小学校の敷地となっており、御殿玄関と陣屋門がつくば市街に移築されている。 |
細川興貫
35歳 外様
細川家の分家であり、天狗党討伐に参加。官軍に恭順して会津攻めにも出兵した。 |
229 |
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牛久藩
1万石
牛久陣屋
茨城・牛久市
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山口菱 |
寛永6年(1629)山口重政が1万5千石(その後弟に5千石を分与)に加増されて入封。文久3年(1863)に牛久沼東岸にあった中世の牛久城跡地に陣屋を築く。ほぼ方形。現在は小公園になり、土塁や堀の一部が残っている。陣屋門は民家に移築されて現存する。 |
山口弘達
7歳 譜代
官軍に恭順して水戸街道の警護に当たる。 |
230 |
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下妻藩
1万石
下妻陣屋
茨城・下妻市 |
井上鷹の羽 |
正徳2年(1712)美濃郡上八幡の城主井上正任の3男正長が1万石を得て大名に列せられ、中世この地を支配した多賀谷氏の築いた下妻城西方に陣屋を構えた。元治元年(1864)天狗党討伐軍の本拠地をこの地に置いたため、陣屋は天狗党の攻撃を受け、藩主は陣屋を自焼して江戸に逃れた。陣屋跡にはご陣屋稲荷と呼ばれた城山稲荷が残る。 |
井上正巳
11歳 譜代
新政府に恭順したが旧幕府軍の協力要請を断り切れず。藩士の一部が旧幕府軍に従うことを認めるなど混乱。 |
231 |
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下館藩
2万石
下館城
茨城・筑西市 |
丸に笹竜胆 |
文明10年(1478)水谷勝が氏五行川左岸の丘に築城したのが最初とされる。東の五行川と西の沼地を自然の外堀とした平山城で天守や櫓はなかった。丘の北側が本丸、南に二の丸、三の丸、外曲輪が配置され、それらが渦巻状に連続することから「螺城(ほらがいじょう)」と呼ばれた。現在城址は市街地となり遺構は見当たらない。 |
石川総管
26歳 譜代
藩主は幕府の若年寄りを務めるなどしたが、いち早く官軍に恭順。旧幕府軍の協力要請もはねつけた。 |