幕末の藩と最後の藩主 関東の藩 

幕末の藩と最後の藩主 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
北海道・東北
関東
北陸
東海
関西
山陰
山陽
四国
九州・沖縄


 関東の藩
 上野     館林藩   沼田藩   伊勢崎藩   前橋藩   高崎藩   吉井藩   小幡藩 
   安中藩   七日市藩           
 下野    黒羽藩   烏山藩   大田原藩   喜連川藩   高徳藩   宇都宮藩    壬生藩 
   吹上藩   佐野藩   足利藩         
 常陸   松岡藩    水戸藩   麻生藩    笠間藩   宍戸藩    府中藩   志波藩 
   土浦藩   谷田部藩   牛久藩   下妻藩   下館藩      
 下総   結城藩   古河藩   関宿藩   小見川藩   多古藩  高岡藩   佐倉藩 
   生実藩             
 上総     鶴牧藩   一宮藩   大多喜藩   久留里藩   請西藩   飯野藩   佐貫藩 
 安房     館山藩   勝山藩           
 武蔵    岩槻藩    忍藩  川越藩    岡部藩   金沢藩      
 相模    荻野山中藩   小田原藩           


上野
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
201 館林藩

6万石

群馬・館林市

館林城 


五瓜に唐花
天文元年(1532)または弘治2年(1556)に長井照光が築城したのが最初といわれる。その後、上杉、北条の攻撃を受け攻略される。家康の関東入城時には家臣の榊原氏が城主となる。天守は築かれなかった。現在は三の丸に城門、土塁、井戸屋方が復元された。  秋元礼朝
20歳 譜代
第1次征長時に長州・幕府の調停に努める。戊辰戦争では官軍側で北越から奥州まで転戦した。 
202 沼田藩

3万5千石

群馬・沼田市

沼田城 


土岐桔梗 
天文13年(1544)に沼田氏によって築城。天正19年(1591)から慶長2年(1597)にかけて修復。二の丸、三の丸、水の手曲、五重の天守を造営した。一時廃城となり、元禄16年(1703)本多氏が転封となり城を修復したが館程度の規模となった。    土岐頼知
18歳 譜代
前藩主は第2次征長に参加するが、情勢不利と見て隠居。土岐頼知は官軍に恭順。    
203   伊勢崎藩

2万石

群馬・伊勢崎町

伊勢崎陣屋
   


丸に剣片喰 
天和元年(1681)に前橋城主酒井忠清の二男・忠寛が2万石を分与されて立藩。赤石城跡地に陣屋を築く。2の丸には藩主の御殿もあり陣屋とはいえ本丸、2の丸、乾碕曲輪をもうけた城郭であった。現在は小学校や市街地となり、当時をとどめる門も、侍屋敷から移築したもの。    酒井忠強
32歳 譜代
日和見な対応であったが、最終的には官軍の東山道先方隊総督府に恭順。沼田に進駐し、三国峠の戦いに参加した。
    
204 前橋藩

17万石

群馬・前橋市

 前橋城 


三葉葵 
延徳年間(1489〜1492)箕輪一族が利根川東岸の厩橋に築城したのが始まり。元禄年間(1688〜1704)に城主であった酒井氏の代に厩橋を前橋と改称。宝暦7年(1757)利根川の浸食により城が崩壊、川越に移転。前橋城は一旦廃城とる。文久3年(1863)地元の要望により前橋城の再建に着手し慶応3年(1867)に川越から移転    松平直克
27歳 家門
直克は幕府の政治総裁職を務め、大政奉還後も幕府側に立って行動したが、官軍が迫ると帰藩して恭順した。    
205 高崎藩

8万2千石

群馬・高崎市

  高崎城  


高崎扇
慶長3年(1598)家康が家臣の井伊直政に命じて、中山道の要害に立つ和田城を取り込んだ形で新城を築かせ、名を高崎城と改めた。ほぼ方形に本丸を2の丸、西の丸、西曲輪、榎曲輪、三の丸が取り囲む壮大な規模であった。現在、本丸、二の丸は失われ、三の丸の土塁と堀の一部が残るのみ。乾櫓と東門が移築されている。   大河内輝聾
19 歳 譜代
文久4年(1864)水戸の天狗党討伐の幕命を受けて領内の下仁田で戦うが惨敗。その後甲府城代を命じられる等、幕府要職に就くが、官軍の進出に恭順。  
206   吉井藩

1万石

群馬・吉井町

吉井陣屋


上野牡丹 
宝永6年(1709)それまで7千石の旗本格であったが3千石加増されて大名となる。宝暦2年(1752)陣屋を吉井村に構える。現在陣屋跡は市街地になっているが、郷土資料館横に表門が移築されて保存。土塁の一部も残る。   鷹司信謹
14歳 家門 
最後の藩主信謹は米沢藩からの養子。官軍の進出により恭順。三国峠の戦いに参加した。 
207   小幡藩

2万石

群馬・甘楽町

小幡陣屋


九曜 
元和3年(1617)大和郡山藩主の織田信雄の4男が甘楽他3郡2万石を拝領、寛永19年(1642)織田信昌が陣屋を築く。嘉永4年(1851)松平忠恵のときに城主格となり、小幡城と称した。現在は織田信雄が造らせた大名庭園「楽山園」が県の史跡として残る。   松平忠恕 
42歳 譜代
天狗党討伐の際に高崎藩とともに出兵。敗北する。官軍の進出により恭順し、三国峠で会津軍と戦う。    
208   安中藩

3万石

群馬・安中市

安中城


左三つ巴 
慶長19年(1614)井伊直勝が3万石を与えられ、戦国時代に築かれた安中城跡地に築城。明治まで城は存続したが規模は小さく陣屋程度であった。現在は土塁、空堀の一部が残るだけ。   板倉勝殷 
47歳 譜代
やや保守的な慎重派で、日和見的な対応であった。幕臣として碓氷峠の防衛を担当したが、碓氷峠に現れた赤報隊を討伐。官軍に恭順した。    
209   七日市藩

1万石

群馬・富岡市

 七日市陣屋


星梅鉢 
元和2年(1616)加賀前田利家の5男・前田利孝が大阪の陣での戦功を認められ1万石を与えられて七日市村に陣屋を築いた。天保12年(1841)陣屋が全焼するが天保14年に再建。陣屋跡は現在小学校の敷地で、御殿の一部が残っている。   前田利豁 
44歳 外様
利豁は富山前田家からの養子。上京して新政府に恭順した。    

  ページトップへ 

下野
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
210 黒羽藩

1万8千石

黒羽陣屋 

栃木・太田原市



大関沢潟
天正4年(1576)大関高増が陣屋を築く。承応3年(1654)大関増栄が本丸を築くが、享保10年(1725)焼失。文政5年(1822)には居館が全焼。文政6年に再建。現在は公園化されて、土塁、堀の一部が残る。模擬望楼も建設されている。  大関増裕 
30歳 外様
御家騒動で前藩主が隠居した後、遠州横須賀藩から養子に入り後を継ぐ。藩政改革に努め、その名声から幕府の陸軍、海軍、若年寄りの要職を勤めた。
211   烏山藩

3万石

烏山城

栃木・烏山市

 
 

那須
大久保藤
応永25年(1418)那須資重が那須川左岸の八高山に城を築いたのが最初。天正18年(1590)秀吉によって那須家は所領を没収されれる。城は典型的な中世山城の構えであったが、現在は城の主要部分は山林となっている。山上部分に土塁、空堀が、山麓には三の丸の石垣が残り当時の面影をとどめている。  大久保忠順
10歳 譜代
官軍の東山道先鋒総督府に恭順し、白河口の戦いに参戦した。忠順は明治政府の貴族院議員となる。    
212   大田原藩

1万1千石

太田原城

栃木・太田原市
 


丸に釘抜き 
天正12年(1543)太田原資清が最初に築城。その孫晴清が秀吉の小田原攻めに加勢し、1万2千石を拝領。以後明治まで一族が支配。現在城跡は龍城公園となり、本丸、2の丸、3の丸に土塁と空堀が現存する。   大田原勝清 
6歳 外様
大政奉還後に官軍に恭順したが、会津軍と大島圭介の導く軍から攻撃を受け、城を放棄した。勝清は後に貴族院議員となる。    
213    喜連川藩

3千石

喜連川陣屋

栃木・さくら市 
 

五七の桐
天正18年(1590)古河公方足利家の断絶を惜しんだ秀吉により小弓公方足利義明の孫国朝に古河公方の娘を嫁がせて3千石を与える。国朝は文禄2年(1593)に陣屋・居館を築き、3千石ながらその血筋から徳川の代となってからも大名格として扱われる。陣屋の遺構現在はない。   喜連川綱氏
23歳 外様 
官軍に恭順して会津攻めに参加した。 
214   高徳藩

1万石

高徳陣屋

栃木・足利市

   


 
戸田忠至が慶応2年(1866)宗家宇都宮藩主戸田忠友から1万石を分与されて立藩。鬼怒川段丘の中世の古城の跡に陣屋を築く。
戸田忠至は朝廷の山陵奉行として多くの陵墓を調査し、その功により立藩が認められたという。
現在陣屋の遺構は存在しない。 
 
戸田忠至 
58歳 譜代
宗家の宇都宮藩に従って行動。官軍につき、合図攻めにも参戦。  
 
215 宇都宮藩

7万7千石

宇都宮城

栃木・宇都宮市 


星梅鉢 
康平6年(1063)宇都宮氏の祖、藤原宗円が居館を構えたの最初とされる。慶長2年(1597)に宇都宮氏は所領を没収され滅亡。元和5年本田正純が入封されて城を改築。この時天守閣が築かれたという。江戸中期には天守閣は存在せず、本丸5か所に櫓を設けて、そのうちの清明櫓を天守の代用としていた。現在は本丸の一部が残るだけ。   戸田忠友 
20歳 譜代
官軍に恭順したが大島圭介・土方歳三の軍に攻められ城は陥落。その後大垣藩兵の助力で奪還。会津攻めの功により賞典1万石を得る。   
216   壬生藩

3万石

壬生城

栃木・下都賀郡
壬生町 


鳥居笹  
寛正3年(1462)壬生胤業が築城したのが最初とされる。
正徳2年(1712)に鳥居氏が入封し、明治まで続く。
現在跡地は城址公園となり本丸に土塁の一部と堀が残る。 
鳥居忠宝 
22歳 譜代
官軍の東山道先鋒総督府に恭順して、旧幕府軍と戦うが敗北。旧幕府軍に兵糧を与えて城下を迂回してもらう。 
 
217   吹上藩

1万石

吹上陣屋

栃木・栃木市  
  


左三つ巴 
天保11年(1840)上総五井藩主有馬氏郁が領知替えとなり、天保13年に中世の吹上城本丸跡に陣屋を築く。
現在陣屋の遺構は見られないが、吹上城の土塁と空堀の一部が残る。
  
有馬氏弘 
17歳 譜代   
官軍の東山道先鋒総督府に恭順。
宇都宮にて旧幕府軍の大島圭介らと交戦する
。 
218   佐野藩

1万6千石

佐野陣屋

栃木・佐野市
    


堀田木瓜 
貞享元年(1684)古河藩堀田正俊の2男正高が1万石を分与されて立藩。元禄11年(1698)正高は近江へ入封されて一旦廃藩となる。文政9年(1826)堀田正敦が若年寄りを務めた功により加増されて近江より佐野(植野村)に移転。文政11年に陣屋を構える。現在陣屋の中心部は公園となり、土塁の一部が残っている。   堀田正頌 
25歳 外様
官軍に恭順したものの最初は出兵を拒んで装備の提供をしただけであったが、叱責をうけて宇都宮で大島圭介の軍と交戦。その後会津軍とも戦った。   
219   足利藩

1万1千石

足利陣屋

栃木・足利市
   


星梅鉢 
宝永2年(1705)甲府宰相綱豊の付家老戸田忠利が足利の3郡を拝領して大名となる。宝暦8年(1758)になってその一族が陣屋を築き明治まで続く。
現在陣屋跡は市街地化して、石碑があるのみ。  
戸田忠行 
20歳 譜代
忠行は幕府の陸軍奉行を務めたこともあり当初は佐幕派であった。しかし宇都宮藩の支藩の立場にあり、宗家に倣い官軍に恭順した。  

  ページトップへ 

 常陸
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
220 松岡藩

2万5千石

松岡城

茨城・高萩市 


枡に月 
慶長7年(1602)戸沢政盛が出羽角館より移り、中世の山城であった龍子山城の麓に曲輪を築いて松岡城と称した。元和8年(1622)以降水戸藩に属し藩の付家老中山信正が城主となる。一時廃城となったが、享和3年(1803)再建。陣屋程度の規模。明治元年(1868)に付家老は正式な大名格となる。  中山信徴 
21歳 諸侯
水戸藩付家老職が代々城主を務めていたが、他の御三家の付家老と同様に明治元年に独立した。水戸藩の混乱に翻弄される。  
221 水戸藩

35万石

水戸城

茨城・水戸市 


水戸三葉葵
 
鎌倉時代初期に馬場資幹が馬場城と称した館を築いたのが水戸城の始まりとされる。戦国時代に江戸氏が水戸城と改め、天正18年(1590)佐竹氏が水戸城を奮取し大改築する。慶長14年(1609)に徳川家康の11男頼房が入封し、以後徳川御三家として続く。寛永2年(1625)城を修復。2の丸に天守代用の3階櫓を建てる。   徳川慶篤 
35歳 御三家
尊王攘夷派の中心的人物であった斉昭の死後に藩主となるも、藩内の佐幕派、勤王派の対立を抑えられず「よかろう様」と揶揄される。   
222   麻生藩

1万石

麻生陣屋

茨城・行方市


左三つ藤 
慶長9年(1604)新庄直頼が3万石で摂津高槻より入封。霞ケ浦東岸の突き出た岬の先端に陣屋を築いた。延宝4年(1676)後次がなく一旦除封されるが、先代の養子が1万石で後を継いだ。現在陣屋の跡は小学校の敷地となっている。   新庄直敬
49歳 外様
新政府に恭順し、旧幕府軍の取り締まりを命じられるが、小藩であり実績を上げられなかった。   
223 笠間藩

8万石

笠間城

茨城・笠間市 


丸に牧野柏
承久元年(1219)宇都宮氏の一族塩谷時頼が佐白山に築城。その後笠間氏が城主となるが、秀吉の小田原攻めに北条方につき滅亡。笠間城は佐白山の地形を生かした山城で中世山城の遺構を活用した近世城郭として貴重な存在。現在、石垣の一部、土塁、空堀が残る。かつての2重櫓が城下の寺に移築されている。   牧野貞直 
37歳 譜代
官軍に恭順して旧幕府軍と戦うが、装備は鎧かぶとに火縄銃で、敗北する。   
224 宍戸藩

1万石

宍戸陣屋

茨城・笠間市
    


松平大炊葵  
天和2年(1682)水戸光圀の弟松平頼雄が1万石を分与されて立藩。天保15年(1844)に中世の宍戸城跡地に陣屋を築く。
現在、陣屋跡地は農地や宅地となっている。長屋門形式の表門が笠間市街に移築されて現存する。  
松平頼徳 
36歳 家門
幕府の命を受け天狗党征伐に向かったが、逆に天狗党に寝返り幕府軍と戦う。結局投降して、切腹する。 
225   府中藩

2万石

府中陣屋

茨城・石岡市
   


松平大炊葵 
元禄13年(1700)水戸藩徳川頼房の5男松平頼隆が2万石を分封されて立藩。旧府中城の三の丸跡地に陣屋を築く。ただし、頼隆は定府で江戸務めであったため御殿はない。陣屋跡は市民会館、小学校の敷地となっている。土塁、空堀の一部が残り、陣屋門が小学校わきに移築されている。   松平頼縄 
62歳 家門
水戸藩の支藩という立場で官軍に恭順。会津に出兵し戦う。  
226   志波藩

1万石

志波陣屋

茨城・かすみがうら市  


笹竜胆 
慶長6年(1601)本堂茂親が出羽仙北郡本堂から入封。中世の志波城跡に陣屋を築く。最初は8千5百石の旗本であったが、明治元年(1868)に1万石に加増されて大名格となる。
陣屋跡地は小学校の敷地となり、土塁と、空堀の一部が残る。  
本堂親久 
38歳 諸侯
明治元年に創設した藩で、本堂親久が最初で最後の藩主。   
227 土浦藩

9万5千石

土浦城
(亀城)

茨城・土浦市
  
 

立三ツ石 
永享年間(1429〜41)にこの地を支配した小田氏の家臣、今泉三郎が築城したのが最初とされる。以後小田氏の家臣が居城したが、天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めとともに滅亡する。貞享4年土や政直が駿河田中より入封し明治まで続く。土浦城は霞ケ浦の水を引いて5重の堀に囲まれた平城。水に浮かんだ亀に似ていることから亀城の別称がある。   土屋寅直
47歳 譜代
寅直は徳川斉昭の17男で養子。水戸藩とは違い、早くから官軍に恭順し、東北戦線にも出兵した。 
228   谷田部藩

1万6千石

谷田部陣屋

茨城・つくば市


陰の九曜 
元和2年(1616)細川忠興の弟細川興元が東谷田川と西谷田川に挟まれた台地に陣屋を築く。現在陣屋跡は小学校の敷地となっており、御殿玄関と陣屋門がつくば市街に移築されている。   細川興貫 
35歳 外様
細川家の分家であり、天狗党討伐に参加。官軍に恭順して会津攻めにも出兵した。    
229   牛久藩

1万石

牛久陣屋

茨城・牛久市

  


山口菱
寛永6年(1629)山口重政が1万5千石(その後弟に5千石を分与)に加増されて入封。文久3年(1863)に牛久沼東岸にあった中世の牛久城跡地に陣屋を築く。ほぼ方形。現在は小公園になり、土塁や堀の一部が残っている。陣屋門は民家に移築されて現存する。   山口弘達 
7歳 譜代
官軍に恭順して水戸街道の警護に当たる。   
230   下妻藩

1万石

下妻陣屋

茨城・下妻市


井上鷹の羽 
正徳2年(1712)美濃郡上八幡の城主井上正任の3男正長が1万石を得て大名に列せられ、中世この地を支配した多賀谷氏の築いた下妻城西方に陣屋を構えた。元治元年(1864)天狗党討伐軍の本拠地をこの地に置いたため、陣屋は天狗党の攻撃を受け、藩主は陣屋を自焼して江戸に逃れた。陣屋跡にはご陣屋稲荷と呼ばれた城山稲荷が残る。  井上正巳 
11歳  譜代
新政府に恭順したが旧幕府軍の協力要請を断り切れず。藩士の一部が旧幕府軍に従うことを認めるなど混乱。 
231   下館藩

2万石

下館城

茨城・筑西市


丸に笹竜胆 
文明10年(1478)水谷勝が氏五行川左岸の丘に築城したのが最初とされる。東の五行川と西の沼地を自然の外堀とした平山城で天守や櫓はなかった。丘の北側が本丸、南に二の丸、三の丸、外曲輪が配置され、それらが渦巻状に連続することから「螺城(ほらがいじょう)」と呼ばれた。現在城址は市街地となり遺構は見当たらない。   石川総管 
26歳 譜代
藩主は幕府の若年寄りを務めるなどしたが、いち早く官軍に恭順。旧幕府軍の協力要請もはねつけた。  

  ページトップへ 

下総
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
232 結城藩

1万8千石

結城城

茨城・結城市


水野沢潟
養和元年(1181)結城朝光が地頭に補任されて寿永2年(1183)に結城城を築城。天正18年(1590)小田原の役後に家康の長男・秀康を婿養子に迎えるが、慶長6年(1601)に越前へ移封となり、一時廃城となる。元禄13年(1700)水野勝長が入封して元禄16年、中世の結城城跡に城を再建。ただし、陣屋程度の規模であった。  水野勝知
29歳 譜代
藩論は藩主と家老とで2分され、藩主勝知は幕府軍につき、自ら彰義隊とともに結城城を攻めて落城させる。 
233 古河藩

8万石

古河城

茨城・古河市 


六つ水車 
享徳4年(1455)鎌倉公方足利成氏が古河にうつって築城。以降、古河公方の居城となる。西を渡良瀬川、東と南は湿地帯を守りに利用。本丸を中心に西に二の丸、東に帯曲輪、北に三の丸、丸の内曲輪等を配置。
現在、城跡の大部分は渡良瀬川河川敷となり、土塁の一部が残る。  
土井利与 
16歳 譜代
藩主土井利与は雪の結晶を顕微鏡で観察したことで有名な人物。官軍に恭順し、城は日光街道における官軍の基地となった。   
234 関宿藩

4万8千石

関宿城

千葉・野田市
    


 久世鷹 
江戸川と利根川の分岐点にあり、川と低湿地を要害とした平城。長禄元年(1457)古河公方の家臣簗田成助が築いたのが最初と伝わる。江戸期に方形の本丸を置き天守に相当する三階櫓を設ける。現在本丸の大部分は江戸川の改修工事により河川敷となる。城址北に城郭を模した三階櫓が博物館として建設された  久世広文 
16歳 譜代
前藩主広周は和宮降嫁に尽力した人物。当初は佐幕派であったが、鳥羽伏見の戦いの後、官軍に恭順した。  
235   小見川藩

1万石

小見川陣屋

千葉・香取市
   


内田轡
享保9年(1724)内田正親が1万石を与えられて下野都賀郡鹿沼から入封。土塁と堀で囲まれた陣屋を築く。げんざいはそのまま小学校の用地となっているが、土塁、堀の遺構は残っていない。   内田正学 
20歳 譜代
江戸を脱出した旧幕府軍で組織した撤兵隊から協力を強要されてやむを得ず協力。その後官軍に恭順した。   
236   多古藩

1万2千石

多古陣屋

千葉・香取郡
多古町  
繋ぎ梅鉢 寛永12年(1636)松平(久松)勝義が8千石で入封し居館を築く。その後に3千石加増となり大名に列せられる。陣屋は多古村の西丘陵地に建設され、現在小学校のグランドになっている。土塁、石垣の一部が残る。   久松勝行 
35歳 譜代
江戸を脱出した旧幕府軍で組織した撤兵隊から協力を強要されてやむを得ず支援。その後官軍に恭順した。      
237   高岡藩

1万石

高岡陣屋

千葉・成田市
   


井上鷹の羽 
寛永17年(1640)大目付であった井上政重が1万石に加増されて大名に列せられる。陣屋を築いたのは延宝4年(1676)になってから。現在跡地は住宅地となり遺構は残っていない。   井上正順 
13歳 譜代
高岡藩は遠州浜松藩の分家。新政府に恭順して房総の警備を担う。   
238 佐倉藩

11万石

佐倉城

千葉・佐倉市
    


堀田木瓜 
近世の佐倉城は、戦国時代に千葉氏が築いて未完成であった鹿島城跡を利用して、幕府の要職にあった土井利勝が7年の歳月をかけて元和3年(1617)に完成させた。鹿島川と高崎川に囲まれた丘陵に本丸を築き、二の丸、三の丸、総曲輪が配置されている。石垣はなくすべて土塁で築いた平城。天守は寛政11年(1799)に焼失。   堀田正倫 
16歳 譜代
前藩主は順天堂塾(現在の順天堂病院)を開設するなどの開明派で老中職にあったが井伊直助に罷免される。その子正倫は最後に官軍に恭順した。    
239   生実藩

1万石

生実陣屋

千葉・千葉市
   


丸に片喰 
寛永4年(1627)森川重俊が大坂夏の陣の功績を認められて1万石を与えられ、戦国時代の生実城跡に陣屋を築く。現在陣屋跡は住宅地となっているが、森川氏が造営した生実神社との境に土塁と空堀の一部が残る。   森川俊方 
18歳 譜代
森川氏の先祖は旧今川家の家臣。比較的早くに官軍に恭順した。    

  ページトップへ 

上総
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
240 鶴牧藩

1万5千石

鶴牧陣屋

千葉・市原市

 


石持ち地抜き沢瀉
 
文政10年(1827) 水野忠韶が東・西・北の三方を境川に囲まれた台地上に陣屋を築く。水野忠韶は城主角であったので陣屋は「鶴牧城」と称した。鶴牧の名は藩主の江戸屋敷が早稲田の鶴巻町にあったからと言われている。陣屋跡は現在小学校の用地となっていて遺構は見当たらない。 水野忠順 
43歳 譜代
陣屋近くに上陸した旧幕府軍の徹兵隊の要請を受け兵糧を支援したが、後に官軍に恭順。 
241    一宮藩

1万3千石

一宮陣屋

千葉・長生郡
一宮町
  


丸に違い柏  
文政9年(1826)伊勢・下総・上総・上野に1万3千石を領する加納久儔が戦国時代の一宮城跡に陣屋を築く。陣屋は現在城山公園となり土塁の一部が残っている。   加納久宣 
19歳 譜代
早くに官軍側に恭順したが、旧幕府軍の撤兵隊に強要されて兵糧を提供。後に新政府側から叱責を受ける。   
242  大多喜藩

2万石

大多喜城

千葉・大多喜町 


三つ扇  
天正18年(1590)家康の重心本田忠勝が10万石を得て入封し、戦国時代からの多喜根古屋城の南西側に大多喜城を築く。夷隅川に囲まれた台地の上に本丸を配置、二の丸、三の丸が順次造営された。元禄12年(1699)禄高が減少し幕命により城の規模を縮小。天保13年(1842)火災により天守・御殿が焼失。現在模擬天守が再建。   松平正質 
23歳 譜代
鳥羽伏見の戦いでは淀の幕府本営で指揮を執った。その後新政府の追及を受けて佐倉城に幽閉された。   
243  久留里藩

3万石

久留里城

千葉・君津市
   
 

黒田枡形に月
康正2年(1456)武田信長が古久留里城を築く。天文6年(1537)里見義尭が南東の山頂に新久留里城を築く。天正18年(1590)里見氏が滅亡し、以後徳川の家臣が居城するが延宝7年(1679)廃城となる。寛保2年(1742)黒田直純が入封し城を再建。現在本丸に模擬天守が復興されていて城址公園となっている 黒田直養 
18歳 譜代
旧幕府軍の撤兵隊の強要により兵糧を支援したが、同時に官軍に対しても物資を提供。うまく立ち回る。 
244    請西藩

1万石

真武根陣屋

千葉・木更津市 
左三つ巴に一の字  嘉永3年(1850)にそれまで貝渕にあった陣屋を真武根に移して請西藩と名乗る。明治元年(1868)に旧幕府軍に加勢するため陣屋を自焼。現在陣屋跡は畑や雑木林。土塁の一部が残る。   林 忠祟 
19歳 譜代
自ら進んで旧幕府軍が組織した遊撃隊に脱藩して(藩主を辞任)加わり各地を転戦。最後は仙台で官軍に投降した。   
245    飯野藩

2万石

飯野陣屋

千葉・富津市
  


平方九曜 
慶安元年(1648)信濃高遠藩保科正直の3男正貞が1万7千石を得て立藩。飯野村に陣屋を築く。陣屋は城郭に劣らぬ4万坪の広大な敷地を有し、本丸、二の丸、三の丸と区分されていた。現在陣屋敷地の多くは農地や宅地になったが、陣屋の外周にあった堀と土塁の一部が残っている。   保科正益 
34歳 譜代
藩主の正は益第二次長州征伐の折に幕府軍の石州口総督の任にあった。鳥羽伏見の戦い後に、謹慎処分を受ける。  
246    佐貫藩

1万6千石

佐貫城

千葉・富津市
 
 

丸に違い鷹羽
応永年間から応仁年間(1394〜1469)にかけて武田義弘が築城したとされる。里見、後北条の支配の後、家康の関東移封後はその家臣が城主に封じられる。元禄元年(1688)に一時廃城となるが宝永7年(1710)阿部正鎮が入封し城を再建。天守はなかったが本丸、二の丸、三の丸が配置された。現在大手口の石垣、土塁の一部が残る。   阿部正恒 
28歳 譜代
旧幕府軍の遊撃隊や撤兵隊と協力して富津陣屋を攻めるなどしたが、官軍が迫ると、自ら謹慎した。   

  ページトップへ 

安房
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
247 館山藩

1万石

館山陣屋

千葉・館山市
 


隅切り角に三文字
天明元年(1781)小田原藩主の一族稲葉正明が1万石に加増されて大名に列せられる。寛政3年(1791)その子正武が戦国時代の館山城跡地に陣屋を築く。 陣屋跡の大部分は宅地となっているが土塁やマスが他の一部は残り、城山公園に模擬天守が建設されている。 稲葉正善
19歳 譜代
藩主が上京して不在の間に前藩主が独断で旧幕府軍の遊撃隊に兵糧を支援。藩主は新政府に恭順。  
248    勝山藩

1万2千石

勝山陣屋

千葉・安房郡
鋸南町 


 剣片喰 
寛文8年(1622)若狭小浜藩から1万石を分与されて勝山に陣屋を築いて立藩。陣屋跡地には井戸と屋敷稲荷が残るが後は宅地化した。   酒井忠美  
9歳 譜代 
藩主不在の間に重臣の判断で請西藩の要請に応じて一部の藩兵を旧幕府軍部隊に提供。犠牲者を出す。  

  ページトップへ 

武蔵
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
249 岩槻藩

2万3千石

岩槻城

埼玉・さいたま市 


大岡七宝 
長禄元年(1457)扇谷上杉持朝が太田道真に命じて築城させたのが始まりとされる。大永5年(1525)に後北条氏に侵略され、徳川家康の関東入封後は家臣、譜代大名の赴任地となる。現在城の中心部は宅地化され、外曲輪、鍛冶曲輪が城址公園となっている。土塁や空堀の一部が残っている。  大岡忠貫 
20歳 譜代
最初は佐幕派であったが、官軍が江戸に迫ると恭順した。幕府軍脱走兵の取り締まりに当たった。  
250 忍藩

10万石

忍城

埼玉・行田市
    


三つ葉葵 
永徳3年(1491)山内上杉家の重臣・成田親康が城を築いたと伝えられる。天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの際に石田光成らによる水攻めの攻撃を受けたが持ちこたえる。忍城は広大な沼地に点在する島を利用し、本丸の南に二、の丸三の丸を配置し、北に諏訪曲輪、西に土蔵曲輪をめぐらす。本丸に天守、櫓は造られなかった。   松平忠誠 
12歳 家門 
少年ではあったが藩主は鳥羽伏見の戦いに幕府軍として参戦。敗れて紀州へ敗走した。 
251  川越藩

8万石

川越城

埼玉・川越市
 


石州蔦  
長禄元年(1457)扇谷上杉の命により重臣太田道真・道灌親子が築城した。周辺の湿地を利用した平城。上杉家が代々の居城としたが、天文15年(1546)後北条氏に奪取される。寛永16年(1639)智恵伊豆と言われた松平信綱が入封し城を大増築し、三つの櫓と八つの門が築かれた。現在は一部が初雁公園となっている。   松平康英 
37歳 譜代
康英は松井家分家の旗本の子から養子となる。外交の専門家で外国奉行、神奈川奉行の後に老中となる。大政奉還後老中を辞任し官軍に恭順    
252   岡部藩

2万石

岡部陣屋

埼玉・深谷市

   


安部梶の葉  
天正18年(1590)安部信勝が5千石を与えられて陣屋を築く。慶安2年(1649)1万9千石に加増されて大名となる。現在陣屋跡は住宅地や農地となり遺構はない。   安部信発 
22歳 譜代
彰義隊が結成されると旧幕府軍側に味方することを決意したが、官軍が高崎に迫ると新政府軍に恭順した。   
253    金沢藩

1万2千石

金沢陣屋

神奈川・横浜市
  


隅切り角に花菱  
享保8年(1723)1万2千石を領した米倉忠仰が金沢八景を望む久良岐郡社家分村谷戸のちに陣屋を築き大名格となり、金沢藩と称した。
現在陣屋の後は住宅地となり遺構はない。 
米倉昌言 
30歳 譜代
鳥羽伏見の戦の後に官軍に恭順。横浜港の警備や旧幕臣の探査を担当した。   

  ページトップへ 

相模
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
254 荻野中山藩

1万3千石

荻野山中陣屋

神奈・厚木市

 
丸に変わりの大の字  宝永3年(1706)小田原藩主の2男大久保教寛が1万1千石に加増されて大名格となる。当初陣屋は駿河に置いたが、天明3年(1783)愛甲郡中荻野村の荻野川東岸台地に陣屋を移転した。慶応3年(1867)に勤王派浪士の襲撃を受けて焼失。  大久保教義
42歳 譜代 
宗藩の小田原藩が官軍に恭順するとこれに従い、恭順した。
255 小田原藩

11万3千石

小田原城

神奈川県・小田原市  


大久保藤 
鎌倉時代の初期、土肥遠平が最初に城を築く。明応4年(1495)北条早雲が奪う。以後、北条家の居城として4代にわたる関東攻略の本拠となる。秀吉の小田原攻めに対抗して壮大な城壁を建設するが天正18年(1590)降伏する。現在小田原城は公園となり、天守が復元され、順次復元工事が継続されている。  大久保忠礼
26歳 譜代
藩主は讃岐高松藩からの養子。名門譜代の立場であったが、鳥羽伏見の戦で幕府側が敗れると官軍に恭順。   

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.