幕末の藩と最後の藩主 関西の藩 

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 関西の藩
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伊勢
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
501 長島藩

2万石

長島城

三重・桑名市


増山雁金
寛元3年(1245)藤原道家が館を築いたのが起源とされる。元亀元年(1570)一向一揆の拠点となるが織田信長によって攻略される。木曽川と揖斐川の三角州に築かれた天然の要害。慶長6年(1601)入封した菅沼氏が城を修築。本丸、二の丸、馬場などが配置され、三重の堀で守られていた。現在城跡は小学校の用地となっている。  増山正修 
47歳 譜代
当初は佐幕派だったが鳥羽伏見の戦いの後に官軍に恭順。正修は明治2年に死去。 
502 桑名藩

11万石

桑名城

三重・桑名市
 

星梅鉢 
桑名市街の東端にあり揖斐川に臨む水城。東海道桑名宿(7里の渡し)があり交通の要所にある。永正10年(1513)伊藤武左衛門が城館を築いたのが起源とされる。慶長6年(1601)徳川四天王の一人、本多忠勝が入封し城郭の整備を行い、4重6階の天守、51基の櫓などを置いた。天守は元禄17年(1701)に焼失。以後再建されていない   松平定敬 
31歳 親藩
鳥羽伏見で敗戦し、将軍慶喜、兄で京都守護職・会津藩主松平容保とともに江戸へ。最後まで幕府側として戦うも越後柏崎で降伏。  
503 神戸藩

1万5千石

神戸城

三重・鈴鹿市


本多葵   
この地を支配した豪族、神戸氏によって天文年間(1532〜55)築かれた城で、天正8年神戸氏の養子になった織田信孝(信長の三男)によって拡張され、5重の天守が築かれた。その後破却された城を享保17年(1732)に入封した本多忠統が再建。本丸、二の丸、三の丸が連なる平城。現在内堀の跡が公園として整備され、石垣などが残る   本多忠貫 
34歳 譜代
山田奉行(伊勢神宮を管理)職であり、中立的な対応を貫く。    
504   菰野藩

1万1千石

菰野陣屋

三重・菰野町


左三つ巴 
慶長6年(1601)菰野に所領を得た土方氏が戦国時代からあった代官所の跡に陣屋を築く。土方氏は幕末までここを居住地とした。現在陣屋跡は小学校の用地となり、土塁、空堀、石垣の一部が残る。 慶長6年(1601)菰野に所領を得た土方氏が戦国時代からあった代官所の跡に陣屋を築く。土方氏は幕末までここを居住地とした。現在陣屋跡は小学校の用地となり、土塁、空堀、石垣の一部が残る。   土方雄永 
16歳 外様
鳥羽伏見の戦いでは等持院を警護。官軍に恭順。 
505 亀山藩

6万石

亀山城

三重・亀山市


丸に笹竜胆 
北伊勢の中心、鈴鹿川北岸の台地上に築かれた平山城。天正18年(1590)に秀吉の家臣岡本宗憲によって築かれた。本丸、二の丸、三の丸からなる連郭式縄張り。天守は寛永9年(1632)に幕府の命を取り違えた堀尾忠晴によって取り壊される。現在天守台には多門櫓が現存し、公園となっている。   石川成之 
12歳 譜代
家臣が勤王派と行動を共にするように説得中に鳥羽伏見の戦いは終了。その後官軍に恭順して桑名藩攻撃の先鋒隊を勤めた。   
506 津藩

32万3千石

津城

三重・津市
 


藤堂蔦  
古代より「安濃津」と呼ばれた伊勢の中心。戦国時代に城が築かれたが、慶長16年(1611)藤堂高虎によて大改修がされた。安濃川、岩田川を天然の外堀とし、本丸、東丸、西丸を内堀で囲みそれを二の丸が囲む輪郭式の平城。現在は本丸、西の丸、内堀の一部が現存し、三重の櫓が再建されている。   藤堂高猷 
55歳 外様
当初は病気を理由に官軍、幕府の呼び出しに応じなかったが、鳥羽伏見の戦は官軍として参加。以後積極的に官軍として各地に出兵。  
507   久居藩

5万3千石

久居陣屋

三重・津市


丸に蔦 
寛文9年(1669)藤堂高道が津藩から分地されて立藩。翌年久居を住居として陣屋を築く。本丸に相当する「御屋敷」は三方を土塁で固め、堀を巡らせた。
現在陣屋の跡地は中学校、公園の用地となり、空堀の一部が残る。  
藤堂高邦 
21歳 外様
宗家の津藩と行動を共にする。    

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志摩
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
508 鳥羽藩

3万石

鳥羽城

三重・鳥羽市 


稲荷茗荷 
鎌倉時代の豪族橘氏の居城のあった場所といわれる。文禄3年(1594)水軍の頭領・九鬼嘉隆が城郭を整備。寛永10年(1633)入封した内藤忠重が二の丸、三の丸を築いて近代城郭とした。安政元年(1854)の地震で城は大被害を受け、その後再建されていない。 城跡は小学校の用地となり、わずかに石垣土塁が残る。 稲垣長行 
16歳 譜代
鳥羽伏見の戦いでは幕府軍として参戦したが、その後に亀山藩の斡旋で官軍に恭順した。  

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紀伊
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
509 新宮藩

3万5千石

新宮城

 和歌山・新宮市


水野沢瀉 
元和5年(1619)和歌山藩の付家老として水野重仲が入封。寛文7年(1667)3重5階の天守が完成。
現在城跡の一部が公園となり、天守台、枡形虎口などの石垣が残る。 
水野忠幹 
32歳 譜代 
代々紀州藩の付家老職で明治元年に大名に列せられた。
510   田辺藩

3万8千石

田辺城

和歌山・田辺市


下り藤に安の字  
元和5年(1619)和歌山藩の付家老として安藤直継次が入封。戦国時代の湊城の跡地に田辺城を築く。もっとも、陣屋程度の規模で天守は最初からなかった。明治元年(1868)に正式な大名に列せられて田辺藩が成立した。現在跡地は宅地となり一部の石垣が残るのみ。   安藤直裕 
46歳 譜代  
代々紀州藩の付家老職で明治元年に大名に列せられた。直裕の前藩主は紀州藩主慶福(家茂)の第14代将軍擁立に成功した立役者。 
511 紀州藩

55万5千石

和歌山城

 和歌山・和歌山


紀州三つ葵 
天正13年(1585)豊臣秀吉の命により築城される。関ヶ原の後、桑山氏、浅野氏が入封し元和5年(1619)家康の10男頼宣が入城。城の大改修がされる。天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、2基の櫓が渡り櫓によって繋がる連立式。昭和20年の空襲で天守他の建物が焼失。昭和32年(1957)に天守郡が再建された。   徳川茂承 
23歳 御三家
第2次長州征伐の惨敗で藩財政が破綻。御三家であったが日和見的対応。藩主は新政府軍の人質として京都にとどめられ、官軍に兵、物資を供出。    

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近江
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
512 宮川藩

1万3千石

宮川陣屋

滋賀・長浜市


堀田木瓜 
元禄11年(1698)上野矢田から1万国の定府大名として入封。宮川藩を立藩。陣屋は土豪宮川氏の屋敷跡で加田街道、長浜街道に囲まれた交通の要地。現在は宅地化されて遺構はない。  堀田正養 
19歳 譜代
鳥羽伏見の戦の後、官軍に恭順した。  
513 彦根藩

35万石

彦根城

滋賀・彦根市


丸に橘  
慶長5年(1600)家康は重臣の井伊直継に石田三成の所領を与える。井伊直継は慶長8年(1603)から20年の歳月をかけて琵琶湖の内湖と善利川に面した彦根山に新たな城を築く。三重三階の天守を擁する本丸に太鼓丸、西の丸、鐘の丸を配置し、三重の堀を巡らせた堅固な城であった。天守は現存して国宝に指定されている。   井伊直憲 
19歳 譜代
大政奉還後は勤王派を積極的に支援。鳥羽伏見、会津戦争も官軍として参戦。  
514   山上藩

1万3千石

山上陣屋

 滋賀・東近江市
丸に稲荷茗荷   貞享2年(1685)稲垣重定が加増され立藩。稲垣氏は定府大名であったため陣屋は寛政6年(1794)になってから構築。
現在陣屋の遺構は何も残っていない。  
稲垣太清 
27歳 譜代
定府大名で若年寄を出すなどした名門。鳥羽伏見の戦の後、新政府に恭順。   
515   西大路藩

1万8千石

仁正寺陣屋

滋賀県・日野町


 三つ盛り菱 
元和6年(1620)市橋長政が入封し、蒲生氏の居城であった中野城(慶長8年・1603に廃城)の跡地に陣屋を構えた。当初は地名から仁正寺藩と名乗ったが文久2年(1862)に西大路藩と改称した。現在陣屋跡の大半はダムに水没した。   市橋長和 
46歳 外様
京都、四つ塚門の警護を担当したことから勤王色が濃い。鳥羽伏見の戦いは官軍側に着く。  
516 水口藩

2万5千石

水口城

 滋賀・甲賀市


 下り藤  
中世以来の水口城は関ヶ原の戦に西軍に加担したため落城。寛永9年(1632)徳川家光が上洛の際の宿舎にするため築城したものが現在に残る。しばらくは将軍の上洛時の宿舎用であったが天和2年(1682)に加藤明友が入封し水口藩主となる。現在、城跡は高校の敷地となり、東出丸に模擬櫓、門が建てられ資料館となっている。   加藤明実 
19歳 外様
王政復古後に上京し、鳥羽伏見の戦いでは勤王派として内侍所を警護した。  
517 大溝藩

2万石

大溝陣屋

 滋賀・高島市
 

丸の内三つ引
元和元年(1619)分部光信が入封し立藩。陣屋は戦国時代織田信長の甥、信澄が築いた城郭跡に置いた。
現在は戦国時代からの名残の天守台と本丸石垣が残っている。  
分部光貞 
53歳 外様
比叡山の警護にあたり、早くから勤王派を表明。鳥羽伏見の戦いには率先して官軍に加担した。   
518   三上藩

1万2千石

三上陣屋

 滋賀・野洲市


亀甲に四方花菱 
元禄11年(1698)遠藤胤親が入封して立藩。近江富士と呼ばれる三上山の麓に陣屋を置いた。現在、遺構は何も残っていない。   遠藤胤城 
29歳 譜代
旗色を鮮明にしなかったが、最後は官軍に恭順した。
 
519 膳所藩

6万石

膳所城

 滋賀・大津市


本多葵 
慶長6年(1601)家康の命により築城が開始される。京都守護の前線基地の役割から譜代大名が歴代藩主を務めた。琵琶湖の水面に本丸が突き出すように築かれ、二の丸も幅の広い堀で囲まれた典型的な水城であった。明治になって廃城となり石垣が遺構として残る。   本多康穣 
32歳 譜代
最初は藩内の勤王派を粛清したが、大政奉還後は官軍に味方。桑名藩追討の先鋒や北陸戦争に出兵した。    

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山城
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
520 淀藩

10万2千石

淀城

京都・京都


隅切り角に
三文字
元和9年81623)徳川秀忠の命により伏見城を破却して淀城を築く。宇治川と桂川を堀として活用、5重の天守を築く。城址は現在公園として整備されている。  稲葉正邦 
33歳 譜代
鳥羽伏見の戦の時は老中職にあったが、国元は幕府軍の入城を拒否。将軍が江戸に帰還後も老中職に留まり恭順派をまとめた。  

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大和
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
521 柳生藩

1万石

柳生陣屋

 奈良・奈良市


柳生笠 
藩祖は柳生宗矩。代々幕府の剣術指南役であったため江戸定府大名であったが、寛永19年(1642)所領管理のための陣屋を築く。現在陣屋跡は公園として整備されている。  柳生俊益 
16歳 譜代
剣豪柳生宗短の子孫。佐幕派と尊王派と藩論が二分したが、佐幕派が粛清されて官軍に恭順。  
522   柳本藩

1万石

柳本陣屋

 奈良・天理市


織田瓜 
元和元年(1615)織田有楽歳が5男の織田尚長に1万石を分与して立藩。寛永年間に(1624〜44)に中世柳本城の城跡に陣屋を築いた。陣屋跡は現在小学校の要地として使用され堀と石垣の一部が残っている。なお、陣屋の表向御殿は橿原神宮に移転されて重要文化財に指定されている。   織田信成 
24歳 外様
織田信長の末弟で茶人として知られた織田有楽斉の子孫。京都所司代の命によって天誅組を追討。官軍に協力。    
523   芝村藩 

1万石

芝村陣屋

 奈良・桜井市
 

織田瓜
元和元年(1615)織田有楽斉が四男の織田長政に1万石を分与して立藩。最初は戒重に陣屋を置いたが延享2年(1745)に芝村に陣屋を移転した。
現在藩の跡地は小学校の敷地となり一部石垣が残っている。  
織田長易 
43歳 外様
織田信長の末弟で茶人として知られた織田有楽斉の子孫。京都所司代の命によって天誅組を追討。官軍に協力。    
524   田原本藩

1万石

田原本陣屋

 奈良・田原本町


 丸に三つ鱗 
藩祖は賤ヶ岳七本槍の一人平野長泰。慶安元年(1648)田原本町に陣屋を構える。ただし所領は5千石で旗本交代寄合に列して大名格を与えられていた。明治元年(1868)になって石直しにより正式の大名となる。陣屋跡地は町役場などになり、堀跡が一部残っている。   平野長裕 
22歳 譜代
鳥羽伏見の戦の時は5千石の旗本であったが官軍に協力。明治元年に大名格となる。    
525 高取藩

2万5千石

高取城

 奈良・高取町


丸に龍剣に一文字 
日本三大山城の一つ。中世前期から城は築かれ、豊臣秀長の家臣本多利朝によって改修された。寛永17年(1640)に植村氏が入封し幕末まで続く。標高583mの山頂から尾根伝いに曲輪が続く典型的な山城で、各曲輪はすべて石垣で築かれた。本丸には三重の天守と4基の櫓が建てられていた。現在建造物はないが石垣は残っている。   植村家保 
30歳 譜代 
当初は天誅組に協力したが、天誅組が高取城の攻略を企てたため、これを反撃。新政府軍に協力。 
526 郡山藩

15万1千石

郡山城

奈良・大和郡山市


柳沢花菱  
戦国時代初期から築城され、豊臣秀長が大改修した城は大坂夏の陣で焼失。元和2年(1616)水野勝成が入封して、天下普請によって再建される。30万坪の広大な敷地に本丸、二の丸、三の丸を配してそれぞれ濠に囲まれていた。本丸には5重5層の天守があった。現在大手門と二重の隅櫓が再建されている。   柳沢保申 
21歳 譜代
天誅組の討伐に率先して当たる。もともと勤王はであり、鳥羽伏見の戦い後は官軍に恭順。畿内の警護に当たる。  
527   小泉藩

1万1千石

小泉陣屋

奈良・大和郡山市
 

割り違鷹の羽
賤ヶ岳の七本槍の一人片桐旦元の弟片桐定隆が藩祖。関ヶ原の戦の後、慶長5年(1600)に家康によって1万石を与えられ立藩。元和9年(1623)中世に築かれた小泉城の跡地に陣屋を構える。陣屋であったが内堀、外堀を備えた連郭式の平城であった。現在跡地の一部が公園として整備され2重の櫓が復元されている。   片桐貞篤 
24歳 外様
京都所司代から天誅組の討伐を命じられ吉野へ出陣。明治になって幕府討伐軍に協力。  
528   櫛羅藩

1万石

櫛羅陣屋

 奈良・御所市
 

永井一文字三つ星
延宝8年(1680)刃傷事件を起こして改易となった兄の跡目を継いで弟の永井直円が大和新庄で1万石を与えられて立藩。文久3年(1863)に新庄から櫛羅へ陣屋を移転。櫛羅(くじら)藩と改称した。葛城山の地形を利用して陣屋は築かれていたが遺構は残っていない。   永井直哉 
17歳 譜代
鳥羽伏見の戦いの後、官軍に恭順した。  

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摂津
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
529 麻田藩

1万石

麻田陣屋

大阪・豊中市


三盛り洲浜 
元和元年(1615)豊臣の家臣だった青木一重が1万石を拝領して立藩。麻田に陣屋を築く。陣屋は東西に内堀を巡らせて本丸と外堀を巡らせた二の丸で構成されていたが、現在跡地は宅地化されて遺構は残っていない。  青木重義 
14歳 外様
藩主は江戸にいたが、オランダ式兵法の訓練をしていた藩兵が京都市内の警備に当たる。藩主の上洛は遅れたが官軍に恭順。  
530 高槻藩

3万6千石

高槻城

 大阪・高槻市


 永井鉄線  
戦国時代、キリシタン大名高山右近の居城であったが元和3年(1617)土岐氏が入封し、幕府の命で城を修築。
三重の天守の建つ本丸に二の丸、厩曲輪、弁財曲輪が内郭として配置され、三の丸、出丸などが外郭として配置された堅固な城であったが、明治になり城郭は破却されて遺構は残っていない。  
永井直諒 
18歳 譜代
鳥羽伏見の戦い時は江戸にいたが、勝敗がはっきりしてから上洛。官軍に恭順した。    
531   尼崎藩

4万石

尼崎城

 兵庫・尼崎市
 

九曜
近畿と西国を結ぶ流通拠点として古くから重要視された場所。元和元年(1615)戸田氏が入封し、幕府の命で城郭を整備する。本丸を二の丸、松の丸、東・西三の丸が渦巻状取り囲む。本丸には4重の天守が建てられた。明治になり石垣は尼崎港の修理に転用され、現在敷地は学校の用地他となっている。   桜井忠興 
19歳 譜代
鳥羽伏見の戦後、(桜井)松平の姓を桜井に変え、葵の紋を撤去して官軍に恭順した。    
532 三田藩

3万6千石

三田陣屋

 兵庫・三田市


七つ星  
寛永10年(1623)熊野水軍の頭領であった九鬼氏が海のない三田に転封。戦国時代の城跡に陣屋を築く。小高い丘の上に本丸、二の丸を配し、本丸には内堀を巡らせた。現在陣屋跡は学校の用地となって、堀の一部が残っている。   九鬼隆義 
30歳 外様 
九鬼水軍の末裔。幕末に甲冑などの旧式武具を捨て最新式の銃を購入。大政奉還後新政府に恭順。摂津内の幕府領の管理をする。   

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河内
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
533 狭山藩

1万石

狭山陣屋

大阪・大阪狭山


北条鱗 
北条宗家の名跡を継ぐ北条氏信が元和2年(1616)狭山池のほとりに陣屋を築く。狭山池から流れる東除川に南面して大手門を設け、上、中、下の三つの池を配して防御とした。
現在陣屋跡は遊園地や学校の用地となり、下池が残っている程度。
北条氏恭 
22歳 外様
戦国大名北条氏の末裔。勤王派に属し、鳥羽伏見の戦いでは京都4つ塚門の警備をする。 
534   丹南藩

1万石

丹南陣屋

 大阪・松原市


高木鷹の羽  
元和9年(1623)大阪定番であった高木正次が加増され丹南藩を立藩。南北朝時代の丹南城の跡地に陣屋を構えた。現在、陣屋跡は宅地化されて遺構は残っていない。   高木正坦 
38歳 譜代
幕府の大番頭の職にあり江戸に詰めていたので鳥羽伏見の戦には参戦せず。最終的には新政府に恭順した。    

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和泉
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
535 岸和田藩

5万3千石

岸和田城

大阪・岸和田市


左三つ巴 
岸和田には南北朝時代から砦や城郭が築かれていたが近代的な城郭は天正13年(1585)に秀吉の家臣小出秀政によって築かれる。元和5年(1619)に松平康重が入封し大改修した。変則5角形の本丸に5基の櫓と5重の天守が建てられた。文政10年(1827)天守が落雷で焼失。現在本丸、二の丸は公園となり、天守と隅櫓1基、多門櫓が再建されている。  岡部長寛 
58歳 譜代
鳥羽伏見の戦いのとき藩主は江戸に在住。国元は官軍寄りの意見で、官軍に兵力は提供しなかったが7千両の軍資金を出す。 
536   伯太藩

1万3千石

伯太陣屋

大阪・和泉市   


丸に渡辺星  
享保12年(1727)大阪定番を務める渡辺基綱が1万3千石を拝領して和泉・信太山の中腹に陣屋を構える。
陣屋は現在と口化されて遺構は残っていない。  
渡辺章綱 
34歳 譜代
当初は模様眺めで判断に迷ったが、鳥羽伏見の戦い後は官軍に恭順。和泉にあった一橋・田安家の所領の管理をする。  

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播磨
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
537 明石藩

8万石

明石城

 兵庫・明石市 


三つ葉葵
元和4年(1618)一国一城令によって廃城となった船山城、三木城、高砂城の資材を利用し、西国諸藩の備えとして幕府の命を受けた小笠原忠真が築城。海岸を見下ろす丘陵地に築かれた平山城。現在城跡は公園となっており、本丸巽櫓、坤櫓、本丸、二の丸、三の丸の石垣、三の丸の土塁、中堀が残っている。  松平慶憲 
41歳 家門
鳥羽伏見の戦いでは幕府軍に援軍を送るがすでに戦闘は終結。戦後に官軍に恭順。  
538   福本藩

1万石

福本陣屋

 兵庫・神河町  


 揚羽蝶   
寛文2年(1662)池田政直が入封して福本に陣屋を築く。現在陣屋跡は神社となり庭園が残されている。   池田徳潤 
13歳 譜代
鳥取藩の支藩。佐幕派であったが、鳥羽伏見の戦の後に官軍に恭順。 
539   三草藩

1万石

三草陣屋

 兵庫・加東市  
 

丹羽扇
寛保2年(1742)丹羽薫氏が入封し陣屋を三草に置く。 現在陣屋跡は学校用地となり、井戸跡が保存されている。  丹羽氏中 
36歳 譜代   
鳥取藩の支藩。佐幕派であったが、鳥羽伏見の戦の後に官軍に恭順。   
540   小野藩

1万石

小野陣屋

 兵庫・小野市  
 

一柳釘抜き 
承応2年(1653)一柳直次が小野が原の丘陵地に陣屋を築く。陣屋跡地は小学校等の用地となり遺構は残っていない。   一柳末徳 
17歳 外様
早くから勤王派を表明。鳥羽伏見の戦いでは大阪周辺を警護。  
541 姫路藩

15万石

姫路城

 兵庫・姫路市  


姫路剣片喰   
天正8年(1580)に秀吉によって築かれた城を土台として慶長5年(1600)に池田輝政が入封して現在見られる規模に大改修された。天守は5重7階建てで現存する天守として最大。また東、乾、西の小天守を渡り櫓でつなく連立敷き天守として知られる。国能に指定されているほか世界遺産にも登録されている。   池田忠惇 
28歳 譜代 
鳥羽伏見の戦いで敗れ、藩主は将軍とともに江戸へ。藩主不在の姫路城は官軍に囲まれ無血開城。15万両を供出した。  
542   林田藩

1万石

林田陣屋

 兵庫・姫路市
 

建部蝶 
元和3年(1617)建部長政が入封し、戦国時代の窪山城の跡地に陣屋を置いた。陣屋は丘陵地にあり、石垣、堀を巡らせた。現在、陣屋跡は公園となっており、建物はないが石垣と堀の大部分が残っている。   建部政世 
13歳 外様
藩主は早くから官軍に恭順したが、積極的な対応をせず様子見に徹した。  
543   安志藩

1万石

安志陣屋

 兵庫・姫路市
 

三階菱 
享保2年(1717)中津藩主小笠原長サトの跡目を継ぐ形で弟小笠原長興が立藩。安志に陣屋を築く。現在陣屋跡は小学校の用地となり遺構は残っていない。   小笠原貞孚
17歳 譜代 
藩主は早くから官軍に恭順したが、積極的な対応をせず様子見に徹した。    
544 龍野藩

5万1千石

龍野城

 兵庫・たつの市
 

 輪違い 
明応8年(1499)に赤松氏が鶏籠山上に築いたのが龍野城の始めとされる。寛文12年(1672)脇坂安政が入封し、城を山麓に新しく築く。昭和54年(1979)多門櫓、櫓門、二重櫓、土塀が復元された。   脇坂安斐 
28歳 譜代
鳥羽伏見に戦の後官軍に恭順し、姫路藩の討伐に出兵。また東北の戦線には新造船「神龍丸」を派遣した。    
545   山崎藩

1万石

山崎陣屋

 兵庫・宍栗市


本多葵 
延宝7年(1679)本多忠秀が入封し、元和元年(1615)に池田輝政の四男、池田輝澄が築いた山崎城の跡地に陣屋を置く。陣屋跡地は史跡として保存されている。  本多忠明 
34歳 譜代
藩論は佐幕派が優勢であったが、鳥羽伏見の戦後は官軍に恭順。
    
546   三日月藩

1万5千石

 三日月陣屋

 兵庫・佐用町
 

鶴の丸
元禄10年(1697)津山藩主森長武の弟長俊が宗家の断絶に伴い立藩。千種川の支流、志文川を外堀とし背後を山に囲まれた地に陣屋を構築。入口を枡形に造り、城郭造りの陣屋であった。現在、物見櫓と中御門が復元されている。   森 俊滋 
32歳 外様
早くから勤王派として行動。藩主自ら北越、庄内へ兵を引き連れ参戦した。    
547 赤穂藩

2万石

赤穂城

 兵庫・赤穂市
 

 鶴の丸
天正年間81573〜92)に宇喜多秀家が岡山城の支城として築城。正保2年(1645)浅野長直が入封して現在の規模の城に改修。浅野家は元禄14年に江戸城で刃傷事件を起こして改易となったことは有名。昭和30年(1955)三の丸隅櫓が復元され、以後も順次城内の整備が進められている。   森 忠典 
20歳 外様
幕府軍として参戦した鳥羽伏見の戦の時、勝敗が決する前に撤兵。戦後に官軍に恭順した。    

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