幕末の藩と最後の藩主 四国の藩 

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阿波
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
801 徳島藩

25万8千石

徳島城

徳島・徳島市  


丸に万字
徳島城は吉野川河口の三角州上の小山に築かれた平山城。鎌倉時代の地頭・高野氏が最初の築城者とされる。現在に残る城郭は天正13年(1585)蜂須賀家政による。山上の本丸を中心に東・西二の丸、西三の丸の四つの曲輪を配置。天守は当所本丸の弓櫓付近に建てられたが、後に二の丸に移転。明治以後建物はすべて取り壊された 蜂須賀茂韶
歳 外様 
前藩主斉裕は11代将軍家斉の22男で養子。佐幕派で2度の長州征伐に出兵。鳥羽伏見の戦後に急死。茂韶が跡を継ぎ、勤王派に転向。

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讃岐
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
802 高松藩

12万石

高松城

 香川・高松市
 


三つ葵
天正16年(1588)生駒親正により築かれたのが最初。寛永19年(1642)松平頼重(水戸藩主の子)が入封し、現在残る城郭に修築。瀬戸内海に面した本格的な海城。天守は三重四階であったが明治になって取り壊された。現在、北の丸月見櫓、水手御門、渡櫓、東の丸長櫓、旭門、埋門などが遺構として残る。  松平頼聡 
33歳 家門
前藩主は水戸藩主・徳川斉昭の兄。夫人は井伊直助の二女。幕府の中枢として佐幕派であった。鳥羽伏見の戦い後、官軍に8万両を払い恭順。  
803 丸亀藩

5万1千石

丸亀城

 香川・丸亀市
   


平四つ目結  
慶長2年(1597)高松藩主だった生駒親政の隠居所として築城されたのが最初。標高33mの亀山に築かれた平山城。本丸、二の丸、三の丸を配置し、天守は当初本丸の最高地点に建てられたが、万治3年(1660)に入封した京極高和によって本丸北側に3重3階の天守が築かれ現在に残る。   京極朗徹 
39歳 外様 
室町時代の守護職を務めた名門の出身。早くから勤王派として行動。  
804    多度津藩

1万石

多度津陣屋

 香川・多度津町   


隅立て四つ目結 
元禄7年(1694)丸亀藩主の子京極高通が1万石を分与されて立藩。文政9年(1826)4代目高賢が多度津に陣屋を築く。陣屋は取り壊されたが、侍屋敷、船溜などの遺構が残る。  京極高典 
31歳 外様
早くから洋式兵法を取り入れ、戊辰戦争には官軍として出兵。   

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伊予
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
805 西条藩

3万石

西条陣屋

 愛媛・西条市 


西条三つ葵
寛永13年(1636)一柳直重は父・直盛が6万8千石を得て西条に入封する途上で急死。3万石を襲封し立藩。西条に陣屋を置くも、江戸定府の大名で陣屋は代官が在住。寛文10年(1670)松平頼純が入封し陣屋を引き継ぐ。陣屋は現在高校の用地となって、土塁、堀の一部が残る。  松平頼英 
24歳 家門
御三家紀伊藩の分家であったが 、藩主は早くから勤王の立場を表明していた。しかし疑われて土佐藩の監視下に置かれる。
806    小松藩

1万石

小松陣屋

 愛媛・西条市


一柳釘抜き   
寛永13年(1636)一柳直頼が父・一柳直盛の遺領のうち1万石を分地されて立藩。寛永17年(1640)陣屋を築く。現在跡地には石碑が立つだけで遺構らしきものはない。   一柳頼紹 
45歳 外様
兵制の改革や大砲を鋳造するなど近代化に努める。戊辰戦争では官軍として越後方面の戦いで奮闘した。 
807  今治藩

3万5千石

今治城

愛媛・今治市
  


星梅鉢 
慶長7年(1602)藤堂高虎によって築城が開始される。瀬戸内海に面した海城。本丸に5層の天守が築かれたが、天下普請で築かれた丹波亀山城の天守閣として慶長15年(1610)に移築された。現在石垣、内堀が現存し、本丸北隅櫓あとに5層の模擬天守、二の丸に山里櫓が再建されている。   久松定法
33歳 譜代
第2次長州征伐に出兵したが途中で兵を引き幕府に中止を説く。鳥羽伏見の戦い後は官軍として京都を警護、甲府にも従軍した。   
808  松山藩

15万石

松山城

愛媛・松山市 


星梅鉢 
慶長7年(1602)加藤嘉明が標高132mの勝山に築城を開始。現在の城郭は寛永12年(1635)松平定行が入封して改修。当初5重であった天守は3重に建て替えられた。天明4年(1784)に落雷により天守が焼失するが嘉永5年(1852)に再建されて現在に残る。   久松定昭 
22歳 家門
津藩からの養子。鳥羽伏見の戦では幕府側につき、徹底抗戦を主張するも説得されて恭順。官軍に15万両を献金させられた。   
809    新谷藩

1万石

新谷陣屋

 阿姫・大洲市  


蛇の目 
元和元年(1623)大洲藩主の子・直泰が1万石の分地を得て立藩。寛永19年(1642)陣屋を築く。現在陣屋跡地は小学校の用地となっているが、庭園の遺構が残る。   加藤康令 
29歳 外様
大洲藩の支藩。早くから勤王派として鳥羽伏見の戦いは官軍側で参戦。  
810  大洲藩

6万石

大洲城

 愛媛・大洲城   


蛇の目 
鎌倉時代末期、元弘元年(1331)に宇都宮氏によって築城されたのが最初とされる。慶長15年(1609)に入封した脇坂安治によって改修され、4重の天守が建てられた。肱川左岸に突き出た標高20mの小山に築かれた平山城。山頂に本丸、北の丸、南に二の丸、内堀を挟んで3の丸を配置。天守は明治になって取り壊されたが平成16年復元   加藤泰秋 
21歳 外様
早くから勤王派を表明。鳥羽伏見の戦いでは長州藩兵の上陸を助け、勝因を作った。  
811   吉田藩

3万石

吉田陣屋

 愛媛・宇和島市   
 

宇和島笹
明歴3年(1657)宇和島藩主の子伊達宗純が3万石を分与されて立藩。翌年、万治元年(1658)に陣屋を築く。陣屋であるが堀を掘削し、隅櫓を設けた。現在跡地は図書館用地となっているが石垣などの遺構が残る。   伊達宗孝 
46歳 外様
宇和島藩の支藩。宗藩と行動を共にする。
 
812  宇和島藩

10万石

宇和島城

 愛媛・宇和島市  


宇和島笹 
中世以来の板島丸串城の跡地に文禄4年(1595)藤堂高虎が入封し本格的城郭に修築。寛文2年(1662)伊達宗利(政宗の長男)が入封し現在残る城郭に改修。この時建てられた3重3階の天守が現存する。   伊達宗徳 
37歳 外様 
前藩主伊達宗城は「幕末の四賢候」と言われた一人。早くから勤王派として行動。ただし、薩長の武力討伐には同調せず中途半端の対応をした。    

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 土佐
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
813 土佐新田藩

1万3千石

陣屋はない

高知・高知市


丸に土佐柏
安永9年(1780)山内豊産が土佐藩より1万3千石分与されて立藩。定府大名であり管理は宗藩が行う。当初より陣屋はない。 明治3年(1870)に土佐藩に編入された 山内豊福 
31歳 外様
定府大名で江戸の佐幕派の意向と宗藩の土佐藩の意向に翻弄され、夫人とともに自害した。
814  土佐藩

24万2千石

高知城

高知・高知市   


丸に土佐柏  
慶長5年(1600)土佐一国の城主となった山内一豊が慶長8年(1603)に標高40mの大高坂山に築城。山頂を石垣、塀で囲み、南の本丸、北に二の丸、北東に3の丸を配置。本丸に4重6階の天守を建てる。享保12年(1727)の火災により建物の大部分を焼失したが宝暦3年(1753)再建される。現在、天守他多くの建物が残る。  山内豊範 
21歳 外様
前藩主容堂は井伊直助と対立して失脚。家督を豊範に譲るが桜田門外の変後に復帰し公武合体策を進めるも頓挫。戊辰戦争では土佐藩兵が活躍。  

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