幕末の藩と最後の藩主 東海の藩 

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東海の藩
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信濃
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
401 飯山藩

2万石

飯山城

長野・飯山市
  


本多立ち葵
永禄7年(1564)甲斐の武田信玄の侵略を防御するため上杉謙信が本格的な築城をした。城は千曲川を望む丘陵地にあり、本丸は石垣造り。また虎口は外枡形に造られた。上杉景勝が居城とした時期もあり中世より北信濃の要害の地として重要な位置にあった。享保2年(1717)より本多氏が城主となり明治まで続く。 本多助成 
21歳 譜代 
官軍に恭順して会津へ出兵。城下は明治元年(1868)に旧幕府軍の衝鋒隊の攻撃を受けた。
402   須坂藩

1万石

須坂陣屋

長野・須坂市
   
亀甲に卍  越後三条城主堀直政の子、堀直重が大坂の陣の戦功により加増され須坂藩を立藩。元和3年(1617)直重の子、直升が陣屋を築く。陣屋跡は現在藩祖堀直重を祀る神社と小学校の敷地となっている。   堀 直虎 
31歳 外様
大政奉還後に若年寄り兼外国奉行に登用される。鳥羽伏見で幕府が敗退後に将軍に無条件恭順を直言したが拒絶され、切腹した。    
403 松代藩

10万石

松代城

長野・長野市
  


真田六文銭 
永禄3年(1560)武田信玄が川中島に海津城を築いたのが松代城の起源。元和5年(1619)に真田信之が入封し、松代城と改名。本丸は総石垣造りであるが、二の丸他は土塁造り。10万石の居城としては小振りだが中世の城郭様式が残った縄張りを保っている。平成16年(2004)に本丸の北不明門、太鼓門、土塀が復元された。  真田幸民 
17歳 外様
真田信之を藩祖に持つ。鳥羽伏見の敗北後に官軍に恭順。甲府城防衛、北越戦争に参戦した。   
404 上田藩

5万3千石

上田城

長野・上田市
 


上田桐 
天正11年(1583)に真田昌幸によって築かれた。千曲川を望む段丘上に築かれ、天正13年(1585)、慶長5年(1600)の2度にわたって徳川軍の攻撃を受けたが撃退した難攻不落の城として著名。関ヶ原の戦以後に家康によって破却されたが、寛永3年(1626)以降に整備された。本丸に西櫓、北櫓、南櫓が残っている。   松平忠礼 
17歳 譜代
鳥羽伏見の戦で敗北後も佐幕派を宣言していたが 、官軍が迫ると恭順した。  
405  小諸藩

1万5千石

小諸城

長野・小諸市
 


丸に牧野柏 
長享元年(1487)武田の家臣大井光忠に寄って築城されたのが最初とされる。天正18年(1590)豊臣大名の戦国秀久が入封して本格的な築城を行い三重の天守を築いた。天守は寛永3年(1626)の落雷により焼失。以後の再建はない。現在城跡の大部分は懐古園となっている。  牧野康済 
26歳 譜代
第2次長州征伐に従軍した佐幕派であったが、官軍の東征軍が迫ると恭順した。   
406    岩村田藩

1万5千石

岩村田陣屋

長野・佐久市
  


岩村田藤 
元禄16年(1703)内藤正友が武蔵赤松から転封となり信濃岩村田に陣屋をおく。安政5年(1858)に城主格となり文久元年(1861)より築城を開始したが、完成を待たずに廃藩置県を迎えた。   内藤正済 
22歳 譜代
第2次長州征伐に従軍し将軍家茂と大阪入りして市中警護にあたっていたが、最終的には官軍に恭順した。 
407 田野口藩

1万6千石

田野口陣屋
(龍岡城)
長野・佐久市
   


鬼蔦  
元治元年(1864)それまで三河奥殿を居住場所としていた松平乗謨は所領であった田野口に居所を移して陣屋をおいた。陣屋は五つの稜保を持つ西洋式城郭として造られ慶応2年(1866)にはほぼ完成した。現在陣屋跡は小学校の敷地となるが、堀、石垣、土塁が残っている。   松平乗謨 
28歳 譜代
陸軍奉行の職にあったが官軍の東山道総督府に帰順。郡県制を上奏し、自ら進んで廃藩した。    
408  松本藩
 
6万石

松本城

長野・松本市


離れ六曜 
戦国時代に小笠原、武田の支配を受け深志城を築く。、天正18年(1590)に石川数正が入城して城郭を大改築。深志を松本に改名。この頃に現存する五重六階の天守は完成したといわれる。寛永10年(1633)松平直政が入封して天守に付随する辰巳櫓、月見櫓を増築。享保12年(1727)本丸御殿が焼失したが天守は残る。   戸田光則 
39歳 譜代
第2次長州征伐に参戦した佐幕派であったが鳥羽伏見の戦いで敗北後に官軍に恭順した。   
409  諏訪藩

3万石

高島城

長野・諏訪市
  


諏訪梶の葉  
天正18年(1590)豊臣秀吉の大名であった日根野吉明が築城。吉明が慶長6年(1601)に下野壬生へ転封後に、代々諏訪大社の大祝であり諏訪湖周辺に勢力を張っていた諏訪頼水が入封。築城時は諏訪湖に突き出すように築かれていたが、江戸末期には湖水側は埋め立てられて水田と化していた。昭和45年天守、櫓が復元された。    諏訪忠誠 
46歳 譜代
老中として外国との交渉役を務める。長州征伐に反対して罷免された後は勤王派として行動する。    
410  高遠藩

3万3千石

高遠城

長野・伊那市
 
 

 下り藤
築城時期は定かでないが諏訪氏の一門であった高遠氏が居城としていいたのが最初とされる。本格的な城郭としての体裁を整えたのは武田信玄で、山本勘助に命じて大規模改築させたとされる。段丘上に築かれた平山城で武田氏城郭の特徴を残した縄張りが残っている。現在は桜の名勝地として著名。   内藤頼直
27歳 譜代
1次、2次の長州征伐に参加した佐幕派であったが、家臣の説得を受けて官軍に恭順した。    
411    飯田藩

1万7千石

飯田城

長野・飯田市
  


丸に向う梅  
鎌倉時代に当地を支配していた豪族坂西氏によって築かれたのが最初とされるが、近世に通じる城郭を築いたのは天正18年(1590)に城主となる毛利秀頼、文禄2年(1593)に城主となる京極高知の時とされる。現在、本丸跡にわずかな石垣を残すのみとなっている。   堀 親義 
53歳 譜代
老中職を務めるも最終的には官軍に恭順した。  

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 駿河
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
412 沼津藩

5万石

沼津城

静岡・沼津市
 


丸に立ち沢潟 
安永7年(1778)側用人水野忠友が戦国時代の城跡に築城したもの。城の南東を流れ狩野川を天然の堀とし、さらに二重の濠に囲まれていた。本丸には天守相当の三重櫓が置かれ、二の丸、三の丸のも櫓が建てられていた。明治維新後、沼津兵学校として使用されていた時期もあるが、現在は鉄道、道路の用地として破壊されて遺構はない。 水野忠敬
16歳 譜代
鳥羽伏見の戦い後に幕府から駿河城の守備を命じられるが、尾張藩の勧めで官軍に恭順。官軍から甲府城番を命じられ、近藤勇の甲陽鎮撫隊と戦う。 
413    小島藩

1万石

小島陣屋

静岡・静岡市
  
 

丸に桔梗
宝永元年(1704)甲州往還(身延道)の要害の地に陣屋を築く。4mを超す石垣で曲輪を囲み、枡形の門を構えるなど天守や櫓がなかっただけで城郭と同じ様相であったとされる。廃城後は、一時小学校として使用されたが、現在は耕地となっている。石垣は当時のまま残っている。   松平信敏 
16歳 譜代
官軍に恭順。徳川氏受けが駿府へ移住したのに伴い上総桜井へ移った。    
414   静岡藩

70万石

駿府城

静岡・静岡市


徳川葵 
室町時代に駿河守護職であった今川氏の館があった場所。今川氏の滅亡後に徳川家康が駿府城を築き浜松から移住して居城とした。関ヶ原の戦後、慶長12年(1607)に中部地方の諸大名を動員して城の大改築を行う。家康はここを隠居所とし最期を迎えた場所となる。二の丸、三の丸の堀と石垣が現存。巽櫓、二の丸東門が復元されている   徳川家達 
4歳 徳川宗家
慶喜から家督を譲られ、幕臣6千5百人と駿府へ移住。府中を静岡に改名し静岡藩の成立。家達は欧州留学後に貴族院議長となる。   
415  田中藩

4万石

田中城

静岡・藤枝市
  


本多葵 
元亀元年(1570)信玄が今川の支城・徳一色城を攻略して田中城と改名。低丘陵の頂部に方形の本丸を置き、それを中心に二の丸、三の丸、総曲輪が同心円状に取り囲む甲州流築城とされる特異な縄張り。
現在は堀と土塁の一部が残るのみ。  
本多正訥 
40歳 譜代
本多正信の弟の家系。駿府城代を務めたが城を官軍に明け渡して江戸攻めに協力した。   

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遠江
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
416 相良藩

1万石

相良陣屋

静岡・牧ノ原市


七つ星
江戸時代初期に徳川家康の相良御殿があった場所。明和4年(1767)に田沼意次が城主格となり築城。しかし意次の失脚により城は破却される。文政6年(1823)意次の二男が大名として復帰し、二の丸跡に陣屋をおいた。現在は小学校の用地や相良庁舎として使用され、石垣の一部が残るのみ。  田沼意尊 
49歳 譜代 
田沼意次の子孫。天狗党征伐にあたり、敦賀で天狗党を処刑。鳥羽伏見の戦のあとは官軍に恭順した。 
417  掛川藩

5万石

掛川城

静岡・掛川市
  
 

太田桔梗
明応6年(1497)今川の家臣朝比奈氏が築城したのが始まり。永禄11年(1568)に徳川家康が攻略し、家康が関東入封後に山内一豊が城主となり、今に通じる近世城郭に改修。現在は文久元年(1854)に建てられた二の丸御殿が現存し、平成6年(1994)に創建当時の天守を模した木造の天守閣が復元された。   大田資美 
13歳 外様
鳥羽伏見の戦の後幕府から駿府城警護を求められたが帰藩。自ら上京して新政府に恭順した。    
418  横須賀藩

3万5千石

横須賀城

静岡・掛川市
 


西尾櫛松 
天正6年(1578)武田の高天神城攻略のため家康の家臣大須賀氏が築く。当初は遠州灘の海岸線に沿って築城され、四重の天守が建てられていたが、宝永4年(1707)の地震で崩壊、また海岸線が後退した。現在、本丸、西の丸が整備され、特徴的な川原石による石垣が再現されている。   西尾忠篤 
17歳 譜代
官軍に恭順して東海道筋の警護に当たる。    
419  浜松藩

6万石

浜松城

静岡・浜松市
   


井上鷹の羽   
中世に築かれた引馬城の跡に、元亀元年(1570)三河から遠江に進出した家康が新たな城を築いて居城とした。天正18年(1590)家康が関東に移封されると秀吉の家臣堀尾氏が入城して大改修を行う。丘陵地の最高地点に本丸曲輪を置き、二の丸、三の丸がが階段状に並ぶ連郭式の配置。堀尾氏の時代には天守があったが、江戸初期にはなかった   井上正直 
56歳 譜代
2度老中を務め、横浜開港や生麦事件の解決に尽力した。鳥羽伏見の戦の後に官軍に恭順。東海道の警護に当たる。 
420    堀江藩

1万石

堀江陣屋

静岡・浜松市
  


丸に抱き花杏葉 
永禄12年(1569)堀江城の大沢基胤は家康に恭順し、幕府の儀礼典礼を司る高家として江戸時代を通じて代々その職を世襲してきた。旧堀江城の麓に陣屋を構える。現在陣屋は舘山寺温泉の旅館街となって遺構は残っていない。   大沢基寿
不明 譜代 
禄高を架空計上して大名格を得たが、嘘が露見して禁固1年の刑に処せられた。   

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三河
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
421 吉田藩

7万石

吉田城

愛知・豊橋市


 吉田蝶
永正2年(1505)今川氏親の家臣、牧野古伯が築城したのが始まりとされる。今川氏滅亡後、徳川家康が攻略。天正18年(1590)家康が関東へ移封後、池田輝政が入城して城郭を大改修。豊川に面した本丸を中心に二の丸、三の丸を取り囲むように配置。城下全体を総構の堀で囲む。9基の櫓が建てられたが天守は建設されなかった。  大河内信古
38歳 譜代
知恵伊豆と呼ばれた松平信綱の家系。鳥羽伏見の戦い後、官軍に恭順。 
422  田原藩

1万2千石

田原城

愛知・田原市
  


三宅輪宝 
渥美半島に勢力を持った戸田宗光が文明12年(1408)に築城したのが最初とされる。今川、徳川の支配の後、天正18年(1590)に池田輝政の吉田城の支城となり近世城郭として大改修がされる。本丸、二の丸、三の丸が一列に並ぶ連郭式の縄張。二の丸二重櫓、桜門が復元され、石垣、土塁、堀の一部が残る。   三宅康保 
36歳 譜代
家老・渡辺崋山が洋式帆船の建造、軍制改革など開明政策を断行。鳥羽伏見の戦いの後、官軍に恭順。    
423    大垣新田藩

1万石

畑村陣屋

愛知・田原市
  
 

 九曜
元禄元年(1688)大垣藩から三河、美濃で1万石の分地を得て立藩。陣屋を渥美郡畑村に置いたことから畑村藩ともいわれる。明治2年(1869)に陣屋を美濃大野郡野村へ移転したため、遺構は残っていない。   戸田氏良
28歳 譜代
宗家大垣藩に従い幕府側に立ったが、鳥羽伏見の戦いで敗戦後は官軍側に恭順。会津討伐に出兵した。   
424    西太平藩

1万石

西大平陣屋

愛知・岡崎市
 
 

大岡七宝
寛延元年(1748)江戸町奉行を19年間務めた大岡忠相が加増されて西大平藩を立藩。東海道岡崎宿と藤川宿の中間地点に陣屋をおく。
現在陣屋跡地に門と塀が復元されている。  
大岡忠敬 
39歳 譜代
大岡越前守を祖先に持つ。鳥羽伏見の戦いの後、官軍に恭順。    
425  挙母藩

2万石

挙母城

愛知・豊田市
   


 内藤藤 
寛延2年(1749)に上野安中より入封した内藤政苗の養子内藤学文が天明元年(1781)に標高65mの童子山に築城。石垣を巡らせた本丸と二の丸を配置。本丸に御殿の他2基の櫓を建築。天守は建てられなかった。現在は本丸の隅櫓が再建されている。   内藤文成 
12歳 譜代
鳥羽伏見の戦い後、官軍に恭順。    
426  岡崎藩

5万石

岡崎城

愛知・岡崎市
  


本多葵 
康正元年(1455)三河守護代西郷氏によって築城されたのが最初とされる。享禄4年(1531)徳川家康の祖父が城を攻略し、松平家の居城となる。慶長6年(1601)本多康重が入封して近世城郭に城を大改修した。 
天守、井戸櫓、付櫓、大手門が復元され、石垣、土塁、堀の一部が残る。 
本多忠民 
50歳 譜代
徳川四天王といわれた本多忠勝の家系。藩主は老中職にあったが、鳥羽伏見の戦いの後、官軍に恭順。    
427  西尾藩

6万石

西尾城

愛知・西尾市  
葵の字  西尾城はかつて西条城と呼ばれ承久年間(1219〜22)に三河守護足利義氏によって築かれたのが最初とされる。天正18年(1590)岡崎城主が支城として整備拡張。寛永15年(1638)に入封した田中氏が城下を堀で囲む総構えの工事に着手。明治維新後城の建物は取り壊され堀も埋め立てられる。平成8年本丸櫓、二の丸櫓門が復元された。   松平乗秩 
28歳 譜代
これまでに3人が老中職についた名門家系。藩主は江戸にいたが、官軍が侵攻してきたため重臣たちの協議で官軍に恭順。   
428    西端藩

1万石

西端陣屋

愛知・碧南市
  
 

本多葵
元和2年(1616)近江膳所藩主の2男、本多忠相が1千石の分地を得、その後8千石の加増を得て大身旗本となる。元治元年(1864)江戸警備の功により1万5百石となり大名格となる。西端に陣屋をおき藩庁とした。
現在陣屋跡は宅地化され遺構は残っていない。
  
本多忠鵬 
10歳 譜代
ながらく一族は大身旗本であったが元治元年(1864)に大名格となる。鳥羽伏見の戦後に官軍に恭順。
    
429  刈谷藩

2万3千石

刈谷城

愛知・刈谷市
八つ水車  刈谷城は衣浦湾に突き出す小山に築かれた平山城。本丸、二の丸、三の丸が配置される。曲輪は土塁で囲まれ石垣は一部に用いられていた。
現在、本丸と二の丸の一部が公園として整備され、本丸を囲む土塁と堀が残る。  
土井利教
20歳 譜代
藩主は佐幕派であったが、藩士の一部が勤王派として脱藩。家老を殺害する事件を起こす。鳥羽伏見の戦後に官軍に恭順。
    

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尾張
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
430 犬山藩

2万3千石

犬山城

愛知・犬山市

 



 丸に片喰
犬山城は木曽川左岸の城山に本丸、二の丸をおき、、麓に三の丸を配置した平山城。現在の位置に築城されたのは秀吉の時代で、近世城郭に改修したのは慶長6年(1601)に城主となった小笠原吉次。本丸には天守と四基の櫓が建てられた。現在天守、堀、石垣が残されている。  成瀬正肥 
32歳 譜代
藩主は佐幕派として自ら兵を率いて戊辰戦争に参加。甲州、信州を転戦したが敗れる。
 
431  尾張藩

61万9千石

名古屋城

愛知・名古屋市


尾張葵 
戦国時代に今川氏によって那古野城が築かれ、天文7年(1538)織田信秀がこれを攻略。信長を城主に据えた。 現在の城郭は慶長15年(1610)家康の命により西国大名20家を動員して築城。本丸には5重5階の天守があったが、昭和20年(1945)の空襲で焼失。昭和34年(1959)再建された。  徳川義宣  
9歳 御三家
義宣の父で前藩主の慶勝が実権を握る。慶勝の実弟、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定勝は幕府側として戦ったが、慶勝は官軍の主力として甲州、信州を平定。   

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美濃
    藩名・石高  家紋  城郭の歴史   最後の藩主 
432 苗木藩

1万石

苗木城

岐阜・中津川市


丸に内二つ引き
苗木城は中山道、飛騨街道を見下ろす標高420mの高台に築かれた山城。頂上部に本丸を置き、西に二の丸、北に三の丸を配した。本丸には三重の天守があり二の丸、三の丸に5基の櫓が建てられた。維新後に城の建物は解体されたが石垣は昔のままに残っている。  遠山友詳 
48歳 外様
藩主は若年寄りを務めたが、藩内は勤王派が優勢となり、鳥羽伏見の戦の後官軍に恭順。  
433  岩村藩

3万石

岩村城

岐阜・恵那市  


丸に蔦  
文治元年(1185)御家人加藤景廉が最初に築城したといわれている。信長の時代に森蘭丸が城主となった時期もある。岩村城は標高720mの城山に築かれた山城。最上部に本丸を配し、二の丸、出丸、東曲輪、帯曲輪、八幡曲輪が配置された。本丸に2基の櫓があったが天守はない。明治になって城は取り壊された。  松平乗命 
19歳 譜代
藩主は陸軍奉行。藩内は佐幕派勤王派が対立したが、最後は官軍に加担した。   
434  郡上藩

4万8千石

郡上八幡城

岐阜・郡上市  



青山菊 
  青山幸宣 
14歳 譜代
国元は勤王派。江戸藩邸は佐幕派で官軍と戦った。   
435    高富藩

1万石

高富陣屋

岐阜・山県市 


繋ぎ九つ目 
宝永2年(1705)旗本本庄道草が1万石に加増されて立藩。宝永6年(1709)に高富村に陣屋を築く。現在、陣屋跡は公民館の敷地となり遺構は残っていない。   本庄道美 
47歳 譜代
江戸定府大名で最初は佐幕派だったが、鳥羽伏見の戦いの後早々に官軍に恭順。信濃討伐に参戦した。    
436  加納藩

3万2千石

加納城

岐阜県・岐阜市
   


石持ち地抜き?  
文安2年(1445)美濃守護職土岐氏の出城と築かれたのが最初とされる。斉藤道三が稲葉城を本拠にしてからは廃城となり、慶長6年(1601)家康の命により稲葉城(岐阜城)を廃城として旧加納城跡に天下普請で新たに築城された。
明治維新後に城の建物は取り壊され、現在は石垣と堀の一部が残るのみ。  
永井尚服 
34歳 譜代
藩主は若年寄。鳥羽伏見の戦の後、辞職願を出して官軍に協力した。   
437  大垣藩

10万石

大垣城

岐阜・大垣市 


九曜  
大垣は北に中山道、南に東海道をのぞむ交通の要。戦国時代は斉藤氏の支城があり、信長、秀吉も重臣を城主に据えた。関ヶ原の戦の時、石田光成の本陣となる。慶長6年(1601)石川康通が入封して城を大改修。総構えの堀は4kmに及んだ。4重4階の天守が建てられたが昭和20年(1945)の空襲で焼失。昭和34年天守が再建された。   戸田氏共
13歳 譜代
早くから軍制改革に取り組み幕末の最強軍団と言われた。鳥羽伏見の戦の後、官軍の主力として奥州で戦果をあげる  
438    高須藩

3万石

高須陣屋

岐阜・海津市 


高須三つ葵  
初めて城が築かれたのは大永2年(1522)といわれる。元禄13年(1700)尾張藩主徳川光友の二男松平義行が入封されて陣屋を置く。
現在、陣屋跡は学校、公園の敷地となり、土塁、堀の一部が残る。  
松平義勇 
8歳 家門 
藩主は高須四兄弟の末弟。鳥羽伏見の戦の後、兄の尾張藩と行動を共にした。  
439   今尾藩

3万石

今尾陣屋

岐阜・海津市


隅立四つ目結  
元和8年(1622)名古屋城主徳川義直の付け家老として入封。戦国時代の今尾城跡地に陣屋を置く。正式な大名となったのは明治元年(1868)になってから。
陣屋跡地は小学校の敷地となり、土塁、堀の一部が残る。  
竹腰正旧 
16歳 譜代 
尾張藩の支藩。佐幕派であったが、最終的には尾張藩と行動を共にする。   

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