幕末の藩と最後の藩主 山陽の藩 

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  山陽の藩  
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美作
    藩名・石高 家紋 城郭の歴史 最後の藩主
701  津山藩

10万石

 津山城

岡山・津山市


三つ葉葵
小早川氏が断絶になったあと慶長9年(1604)森忠政が入封し、翌年より新城の建設に着手。元和2年(1627)まで13年をかけて完成。城は高石垣で構築され、本丸、二の丸、三の丸を螺旋状に配置し、5重の天守が建てられた。維新後建物は解体されたが、平成16年(2004)本丸備中櫓が再建された。  松平慶倫 
40歳 家門
長州征伐、鳥羽伏見の戦では幕府軍として参戦。岡山藩の斡旋で官軍に恭順。 
702    勝山藩

2万3千石

 勝山城

岡山・真庭市


三浦三つ引 
明和元年(1764)三浦明次が入封し、廃墟となっていた城を修復。勝山城として居城とした。城は標高321mの如意山と標高261mの勝山を利用し、旭川の流れを自然の堀とした。
現在山上の本丸付近は山林と化し、石垣、堀切が残っている。 
三浦弘次
45歳 譜代 
早くに官軍に恭順したが、前藩主が彰義隊に派兵を強要されて24名の藩士を参加させた。   

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備前
    藩名・石高 家紋 城郭の歴史 最後の藩主
703 岡山藩

31万5千石

岡山城

岡山・岡山市


備前蝶
天正18年(1590)宇喜多秀家が従来の城を大改修。本丸が上段、中段、下段で構成されている特異な縄張りを持つ。天守は5重6階の望楼型で一階部分は不均等5角形。月見櫓、石垣、内堀などの数多くの遺構が残っているが、天守は昭和20年の空襲で焼失。昭和41年(1966)に再建された。  池田茂政 
28歳 外様
水戸藩主・徳川斉昭の子であったが親長州として行動。鳥羽伏見の戦い後は積極的に官軍として出兵。福山藩、姫路藩を討伐。  

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備中
    藩名・石高 家紋 城郭の歴史 最後の藩主 
704 足守藩

2万5千石

足守陣屋

岡山・岡山市


木下日足 
一度家康に所領を没収された木下定家が大坂の陣での戦功を認められて元和元年(1615)足守の旧領を復活。陣屋は寛文2年(1662)木下利貞が築く。足守川の西岸にコの字状に石垣と堀を巡らせた。現在は宝永5年(1708)に造営された回遊式の庭園と御殿が残り公園として公開されている。  木下利恭 
35歳 外様
岡山藩と行動を共にして官軍として積極的に参戦。北越戦争で活躍。 
705    岡田藩

1万石

岡田陣屋

岡山・倉敷市
 

庵木瓜
元和元年(1615)伊東長実が旧領を安堵されて陣屋を築く。現在、陣屋跡は小学校用地となり遺構は残っていない。   伊東長ツマ 
23歳 外様
岡山藩と行動を共にして官軍として出兵。姫路藩討伐に参戦。  
706    庭瀬藩

2万石

庭瀬陣屋

岡山・岡山市
 

左三つ巴 
慶長5年(1600)戸川達安が2万9千石を得て立藩。旧庭瀬城の二の丸に陣屋を築く。久世氏、松平(藤井)氏と藩主が交代し、元禄12年(1699)板倉重孝 が入封し明治まで続く。陣屋は小規模で現在は宅地、神社敷地となっている。  板倉勝弘 
29歳 譜代
戊辰戦争が開戦した当初に官軍に恭順した。ただし、藩士の一部は上野戦争で純忠隊に加わった。    
707    新見藩

1万8千石

新見陣屋

岡山・新見市
 

鳳凰丸
元禄10年(1697)関長治が1万8千石を得て立藩。翌年に陣屋が完成した。陣屋跡は現在学校の敷地となり、石垣の一部が残っている。   関 長克 
27歳 外様
官軍として備中松山藩を攻撃。同藩との攻守同盟の存在から、攻撃側の隊長・丸川義三は城を接収後に切腹した。  
708  松山藩

5万石

松山城

岡山・高梁市


板倉巴  
標高480mの臥牛山に築かれた山城で仁治元年(1240)地頭であった秋葉氏によって最初の城が築かれた。現在の姿になったのは元和元年(1681)に入封した水谷勝宗による。日本三大山城の一つで、2重2階の天守、2重櫓、土塀が現存し重要文化財に指定。櫓、門、塀が再建されている。   板倉勝静 
44歳 譜代
老中として将軍を補佐。戊辰戦争敗退後将軍慶喜とともに江戸へ。奥羽列藩同盟の参謀役となり函館まで転戦した 
709    浅尾藩

1万石

浅尾陣屋

岡山・総社市


八つ星  
慶長5年(1600)に蒔田広定が1万石で入封したが、寛永13年(1636)広定の子、定正が弟に3千石を分与したため大名格から旗本になる。その後、文久3年(1863) に江戸警備の功で1万石に加増されて再び大名格となり陣屋を築く。慶応2年(1866)長門萩藩の攻撃を受け陣屋建物は焼失。現在跡地は神社、公園になっている。  蒔田広孝
18歳 譜代
鳥羽伏見の戦いで敗北後も東北、函館と転戦。最後まで佐幕派として戦った。    
710    岡山新田藩

1万5千石

陣屋はない

岡山・岡山市


三寄り替蝶  
岡山藩の内高1万5千石を当てて立藩したが、陣屋は置かれず政務は岡山藩が見た。幕末に生坂藩と称したとも言われている。   池田政礼 
18歳 外様
岡山藩の分家。岡山藩と行動を共にし、官軍として東北、函館と転戦した。  
711    成羽藩

1万3千石

成羽陣屋

岡山・高梁市


山崎扇 
一時廃藩となっていたが、明歴元年(1655)に交代寄合で5千石の旗本山崎豊治が入封。以前からあった陣屋を拡張した。明治元年(1868)に石直しによって大名に列せられる。現在陣屋跡は小学校、役場、等の敷地になり石垣堀の一部が残る。   山崎治祇 
12歳 譜代
交代寄合の旗本格であったが明治元年に大名に。
   
712    鴨方藩

2万5千石

鴨方陣屋

岡山・浅口町


池田向い蝶 
寛文12年(1672)岡山藩主池田綱政の二男政言が2万5千石を分与され立藩。陣屋は元治元年(1864)になって中世の鴨山城跡に近い山麓に置いた。現在陣屋跡は宗教団体の敷地となっている。   池田政詮 
31歳 外様
岡山藩を尊王攘夷派に導いた人物といわれる。明治になり岡山藩主となる。  

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備後
    藩名・石高 家紋 城郭の歴史 最後の藩主
713 福山藩

11万石

福山城

広島・福山市


安部鷹の羽 
元和5年(1619)水野勝成が10万石を得て入封。中国地方の重要拠点として築城に着手。元和8年に完成した。5重の天守と3重櫓7基、2重櫓16基、楼門10基の大城郭であった。天守は昭和20年(1945)の空襲による火災で焼失。昭和41年(1966)復元された。  阿部正方 
19歳 譜代
前藩主は幕府の重臣だったが、鳥羽伏見の戦いで長州の砲撃を受けて官軍に恭順した。

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安芸
    藩名・石高 家紋 城郭の歴史 最後の藩主
714 広島新田藩

3万石

吉田陣屋

広島・安芸高田


五瓜に違い鷹の羽
広島藩浅野綱長の三男・長賢が3万石を分与されて立藩。文久3年(1863)に幕府の命により陣屋を構築。毛利時代の郡山城の山麓に、土塁、築地を巡らす3千坪の陣屋を構築。陣屋跡は現在高校の用地となっているが、堀跡が現存する。  浅野長厚 
24歳 外様
宗家の広島藩と行動を共にする。  
715  広島藩

42万6千石

広島城

広島・広島市


芸州鷹
天正17年(1589)中国地方を支配した毛利輝元によって築かれる。太田川河口に築かれた平城で、天守は5層5階で2基の3重小天守と連結。昭和20年の原爆投下によってすべての建物が焼失。天守は昭和33年(1958)に復元。平成6年(1994)に二の丸御門、平櫓、多門櫓、太鼓櫓が再建された。   浅野長訓 
55歳 外様
公武合体派だが長州討伐には反対して出兵せず。鳥羽伏見の戦いでは津藩とともに敗走する幕府軍を追撃。  

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周防
    藩名・石高 家紋 城郭の歴史 最後の藩主
716 岩国藩

6万石

岩国城

山口・岩国市


 九曜
慶長5年(1600)関ヶ原の戦で敗れた吉川広家が3万石に減封されて岩国に入封。錦川の段丘上に居館、背後の山の山上に城を築いた。山上の城は一国一城令によって元和元年(1615)に破却。昭和37年(1962)に本来の位置とは異なる場所に4重6階の天守が再建された。  吉川経健 
12歳 外様
早くから勤王派として長州と志を同じとした。 
717    徳山藩

4万石

徳山陣屋

山口・周南市


徳山三つ星
元和3年(1617)萩藩藩主毛利秀就の弟が分地されて立藩。慶安元年(1648)野上村に陣屋を築き、徳山と改称。現在陣屋跡には庭園の遺構が残っている。   毛利元蕃 
51歳 外様
宗家長州藩と行動を共にする。鳥羽伏見の戦いでは幕府軍を山崎で破り、以後、奥州、北越、函館へと転戦する。  

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長門
    藩名・石高 家紋 城郭の歴史 最後の藩主
718 長州藩

36万9千石

萩城

山口・萩市


長州三つ星
関ヶ原の戦で敗者となった毛利輝元が周防、長門の2カ国に転封されて慶長9年(1604)に築城を開始。城は日本海に突き出た小島・指月山の南麓に、5重天守や本丸御殿が築かれた。また詰めの城として指月山さん城に総石垣の天守を持つ山城が築かれた。明治になって建物は取り壊されたが石垣と堀が現存している。  毛利敬親 
48歳 外様
薩摩とともに倒幕の中心勢力。新政府樹立に貢献。 
719    長府藩

5万石

長府陣屋

山口・下関市


府中三つ星  
慶長7年(1615)毛利輝元の養子秀元が分封されて、櫛崎城を改修して居城とするが、元和元年(1615)の一国一城令によって城を破却、山麓に陣屋を築く。現在陣屋跡は高校の用地となっている。   毛利元周 
40歳 外様
長州藩と行動を共にする。  
720    清末藩

1万石

清末陣屋

山口・下関市


長州三つ星 
承応2年(1653)毛利秀元の2男が分地されて立藩。陣屋を築く。現在陣屋跡地は中学校の敷地となり、堀と土塁の一部が残る。   毛利元純 
35歳 外様
長州藩と行動を共にする。  

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