丹波 |
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藩名・石高 |
家紋 |
城郭の歴史 |
最後の藩主 |
601 |
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亀山藩
5万石
亀山城
京都・亀岡市 |
丸に利の字 |
天正年間(1573〜92)に明智光秀が丹波攻略の拠点として築城したのが最初とされる。慶長14年(1609)家康が大阪城包囲の目的で藤堂高虎等に命じて城を大改修。層塔型の5重の天守が築かれ、本丸を取り囲むように内堀、外堀、総構堀が同心円状に配置された。現在城の跡地には宗教法人の本部がある。 |
松平信正
15歳 譜代
前藩主は幕府中枢にいて安政の大獄に協力。藩是は佐幕であったが、山陰道鎮撫使の攻撃を受けて官軍に恭順。
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602 |
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園部藩
2万6千石
園部陣屋
京都・南丹市 |
園部額 |
元和5年(1619)小出吉親が入封し陣屋構築に着手。方形の本丸を中心に二の丸を配し、背後の山を詰城として三重櫓を築く。また2kmにわたる外堀を巡らせ4基の櫓も構築して陣屋というより城郭であった。
現在本丸跡は高校の用地となり、櫓門、巽櫓、番所、石垣、土塁、堀の一部が残る。 |
小出英尚
18歳 外様
勤王派を早くから表明。城を大改修して万一の場合の天皇を受け入れる準備をした。 |
603 |
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山家藩
1万石
山家陣屋
京都・綾部市 |
谷 蝶 |
天正10年(1582)に秀吉が丹波を支配するとその家臣谷衛友に山家を領有させた。谷氏は由良川を見下ろす山上に山家城を築いた。慶長5年(1600)関ヶ原の戦で谷氏は西軍に加担したが許されて所領を安堵される。山上の城を破棄して、その麓に陣屋を構えた。現在陣屋跡は公園となり、表門、石垣の一部が残る。 |
谷 衛滋
50歳 外様
鳥羽伏見の戦い時に藩主は江戸にいたがすぐさま上京して官軍に恭順。 |
604 |
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福知山藩
3万2千石
福知山城
京都・福知山市 |
隅立て四つ目結 |
丹波攻略のために明智光秀が天正年間(1573〜92)に築城。関ヶ原の後、慶長5年(1600)に有馬豊氏が入封して大規模の改修を行い現在の姿となる。由良川と土師川の合流点の丘陵に築かれ、本丸、二の丸、三の丸を連ねた縄張り。昭和60年(1985)本丸中央に3重4階の天守が再建された。 |
朽木為綱
22歳 譜代
鳥羽伏見の戦い後に官軍に恭順。 |
605 |
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綾部藩
1万9千石
綾部陣屋
京都・綾部市 |
左三つ巴 |
寛永11年(1633)熊野水軍九鬼嘉隆の孫九鬼隆李が弟の久隆と跡目争いをして、幕府の裁定で孫が園部藩を立藩した。
陣屋は由良川の河岸段丘に築かれ、本丸を中心に周りに曲輪を配した。慶安3年(1650)に火災で全焼し、翌年に由良川から離れた上野台に方形の陣屋を再興した。現在陣屋跡は小学校の用地となり遺構はない。 |
九鬼隆備
33歳 外様
当初は佐幕派として禁門の変では幕府がとして戦ったが、大政奉還後は官軍につき、鳥羽伏見の戦では丹波口の警護をした。 |
606 |
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柏原藩
2万石
柏原陣屋
兵庫・丹波市 |
織田細瓜 |
元禄8年(1695)織田信休が入封し、正徳4年(1714)に陣屋を築く。文化13年(1816)に御殿が全焼するが文政3年(1820)に再建され現存する。また長屋門は正徳4年当時のものが残っている。 |
織田信親
17歳 外様
勤王派として鳥羽伏見の戦に参戦。御所の警備に当たる。 |
607 |
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篠山藩
6万石
篠山城
兵庫・篠山市 |
青山銭 |
山陰・山陽から京都へ通じる街道の防護として慶長14年(1609)旧豊臣方の大名20家に命じて天下普請で築かれる。本丸、二の丸は高石垣で築かれ、三の丸は一部を高石垣、他を腰巻石垣で築かれている。本丸に天守はなかったが多門櫓で囲まれていた。建物は残っていないが、本丸、二の丸の石垣、堀は当時の姿で残っている。 |
青山忠敏
33歳 譜代
鳥羽伏見の戦いに幕府側の立場でいたが、藩主は江戸にいて戦闘には参戦せず。戦後直ちに上京して官軍に恭順。 |